発達障害の子ども(と言っても成人)には、気が向いたときに行くフリースペースと言われるところがある。ひとつは不登校支援で行われているところで、もう一つは発達や精神に問題を抱えている人と家族を支援するところが運営している。
子どもは以前から、「もっと誰でも行っていい場所にすればいいのに。そういう場所があったらいいなぁ。」と言う。
そこに行けば誰かがいて、話するでもなくそれぞれが好きなことをして過ごす。
勤めもなく、地域に友だちもいないわたしは、ひとりが嫌いではなかったので、これまであまり考えたこともなかったけど、わたしのような社交的でない者でも、気軽に顔を出せるような居場所があったら、確かにありがたい、なんて思うようになった。
そんなとき、うらやましい団地があるのを知った。
「シェアしない人がいてもいい」のがポイント
UR(都市再生機構)の団地の一室にオープンした、小規模多機能居宅介護事業所「ぐるんとびー駒寄(こまよせ)」(神奈川県藤沢市)がそのうらやましいコミュニティの始まり。
ぐるんとびーは高齢者の介護サービスにとどまらず、誰でも参加できるコミュニケーションスペースとして開放し、地域住民としてよりよく生きられる場所づくりに貢献している。
中でも素敵なのは、「シェアしない人がいてもいい」という姿勢だ。助け合えるコミュニティが持続していくためには、生態系のごとく多様であるべき。というわけで、困ったことも楽しいこともシェアするけれど、シェアしない人がいても、それはそれでいいとする緩さが、かえってコミュニティの連帯感を熟成させるという。
わたしも子どもの悩みを打ち明けるのにはずいぶん時間がかかった。個人的な事情なんかは、誰にも言いたくないこともあるし、言いたくても言えない事情があるかもしれない。気持ちはあっても、事情で動けないということもある。とにかく、シェアしたくない人も、シェアしたくてもできない人も、いていいし、いなくてもいい、というのはなかなか素敵なことではなかろうか。
住民の「困った」をシェアするフシギな団地の挑戦 (真鍋 厚)
家族って何?
コミュニティの最小単位が家族だと思うのだけど、考えれば考えるほど家族って何だろうと思う。
血縁関係を言う場合もあるけど、血縁がなくても家族と認め合う関係もあるし、血縁関係があっても、家族から排除するなんてこともある。
社会学者のタルコット・パーソンズは、子どもを社会に適応させ、大人の精神を安定させるはたらきを持つ共同体のことを家族と考えるそうだ。(『万引き家族』は「家族の映画」でも「貧困の映画」でもなかった(真鍋 厚)より)
それによると現代の核家族などは、もはや家族ではないかもしれない。
できる人ができることをして助け合うコミュニティづくりは可能か?
ぐるんとびーは、自分が地域で暮らしやすいように、できることをし合って助け合う、うらやましいコミュニティづくりに成功している。
プライバシーの問題や、迷惑をかけたくないという意識がはびこっている昨今、ちょっと声を掛け合うこともままならない現状で、ぐるんとびーのようなコミュニティづくりは広がるのか。
助け合いたいと思っている人が少なくないことは、災害ボランティアに励む人たちや、ぐるんとびーに人が集まってきていることからもわかる。
わたしもできることなら何でもするから、困ったときに「助けて」と言える人がいたら、どんなに心強いかと思う。すぐに解決しなくても、いっしょに困ってくれる人がいるだけで、どれほど安心できるだろう。
ただ、人が集まれば意見も違う。トラブルも発生する。喧嘩別れする場合もあるかもしれない。話し合っても、思い通りに進むとは限らないし、きっとめんどうくさいことこの上ないのも想像がつく。
それでもそういうことを幾度も幾度も乗り越えたコミュニティほど、たぶんたくましく強くなる。意見が合わないということは、多様な人がいる証でもあるからだ。
たまたまいい人でも集まらない限り、そんなコミュニティはできないだろうか。
誰も追い詰めない安全な居場所なら、誰もその場所を潰すようなことはしないのではなかろうか。
だったらちょっと勇気を出して、自分の居場所を開拓したいものだ。
とはいえ、自分からなかなか率先して動けないわたし、何をどうすればよいのやら。
シェアハウスでもご近所でもない……「ぐるんとびー」が示す日本の未来(真鍋 厚)
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