芸能人格付けチェックで色鉛筆画と写真を見分けるクイズがあった。色鉛筆画はまるで写真のようにリアルに描かれており、どっちが写真でどっちが絵なのか見分けがつかない。
でも、両者を並べて見ると、写真の方がぼやけた感じで色鉛筆の絵のほうがよりクリアで透明感があるのにちょっとびっくりした。
いっしょに見ていた子どもは、色鉛筆の絵は、より本物らしく見せるために、多少極端に表現する傾向があるという。と言って、けして色鉛筆画の表現を否定しているわけではない。あの、まるで実物を見ているかのように錯覚させる表現力は見事としか言いようがない。
作文もまた、自分の思い通りに、わかりやすく伝えようとして、ちょっと大げさになってしまうことがあることを思い出した。
相手に想像させる余地
作文は、意見や情緒を表現することが目的のように思いがちである。ただできごとを並べただけの文章は軽視される傾向がある。最近そのことに疑問を持つようになった。
ことばで考えや思いを伝えようとすることは大事だ。しかし日々のできごとを表した文は、考えや思いをストレートに表した文に劣るだろうか。
作文に限らず、何をするにも目的がなければいけない風潮にも違和感がある。目的を持つことは悪いと思わないけれど、なければならないものなのか。
受験や就活、営業を目的に作文することに慣れ過ぎると、大げさに見えないように、いかにほんとらしく見栄えをよくするか。そうした小手先のテクニックに走りたくなる。そうすると、作文が少しも楽しくない。書いた作文がおもしろくないからだ。
作文に目的などいらない。楽しければいいではないか。
毎日繰り返されるしぐさ、目に映る景色、聞こえる音、触れるもの、食べたもののことを書いた作文のほうがはるかに多くのことを伝えている。読み手が勝手に想像する余地が無限にあるからだ。
一言一句、正確に伝えねばならないことばはもちろんある。でも、考えや思いはそうした連絡事項のようにはいかない。揺らぎや迷い、無知や誤解がたえず含まれている。そうしたもやもやしたことをもやもやしたまま表現豊かに作文にできるなら、誰もが大作家だ。
作文も絵や音楽と同じ表現の一つ。人は楽しいから表現するのだ。同時にことばの表現には心遣いも忘れないようにしたい。暴力になってしまうことがあるからだ。
日々の何てことないできごとの記録の中にこそ悲喜こもごもがある。
それを読みとる人でありたい。
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