努力と運の塩梅

doryokutoun

発達障害と診断された中学生の子どもに決して言ってはならない禁句の言葉が「頑張る」だった。

主治医に言われたわけではない。ただでさえ頑張っている人に励ます言葉はいらない。本か何かでそんなふうに教わったからかもしれない。

以来、頑張るという言葉に嫌悪感があって、避けるように使わなくなっていたのだが、チャレンジ雇用で社会人になった子どもに「頑張ったね。」と言っているのに気づいてハッとした。

最近、子どもが「頑張る」という言葉は嫌い、という話をしたからだ。わたしが言ったからでも誰かに言われたからでもない。何か世間話のついでだった。何となく上から目線な感じがするという。言われてみればそうかもしれない。

わたしは、漠然とした中に、どこか強制的なにおいがして嫌な感じがする。わざわざ言葉にする価値はない、と思っていたのに「頑張ったね。」と子どもに言っているのだから世話がない。

「頑張る」とは、広辞苑によると、どこまでも忍耐して努力すること、とある。ついでに努力とは、目標実現のために心身を労してつとめること、だそうだ。他人がどうこう言うことでないのは明白である。

間違っても「頑張れ」なんてことは言うまい、とあらためて思う。

努力することは素晴らしい?

思うようにいかないとき、努力が足りないからだと思ったものだ。人の何倍も努力しなければならないのに、それができない自分は駄目だと思う。

努力しない駄目な自分を謙虚に反省する自分でごまかす。人生はそういうことの繰り返しかもしれない。

努力は無駄にならないとか、努力は報われると思うかどうかは考え方次第である。

有名人になるとか、富豪になるといった目標は、ほとんどの場合実現しない。

それでも何かしら一生懸命頑張ることを楽しみたいと思うのが人間というものらしい。それが充実するということだからかもしれない。

努力とは、自分にできることを精一杯することだと思う。

サラッと簡単に言ってみたけれど、それが案外難しい。

運としか言いようがないこと

いつの時代の、どこで、どんなふうに生まれるか?

こういうことって運としか言いようがない。

運がいい人は「持ってる」と言われ、才能のように言う人がいるけど、たまたまでしかない。でもそのたまたまの違いがあまりに大きいから困惑するのだ。

でも、運がいいか悪いかは結果論で、ほんとのところは誰にもわからない気がしないでもない。

結局、自分にできることを精一杯するしかないというところに戻ってくる。

ときどき嫌になったり、疲れたり、怠けたりして、適当にああしようか、こうだろうか、と悩みながら、ラッキーな人を見てあこがれたり、ねたんだり、好きになったり、助けられたり、たまに助けたりして、努力と運の塩梅を見ながら、寿命が尽きるその日まで、淡々と暮らしていけたらいいと思う。

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