「沈没家族」の共同保育で育った27歳の本音を読んで

chinbotsu kazoku

発達障害者でふつうの就職が困難なうちの子は、一般社会になじめないマイノリティに寛容だ。

わたしもこの子のおかげで、何かしらめんどうな困難を抱えている人も、社会の中でどうにかいっしょに生きていけたらいいなぁ、と思う。

両親も自分も子どもも、みんな年をとってきて思うのは、いろんな違いを乗り越えることの難しさと大切さです。

そんな中、わたしは「沈没家族」を知ったのでした。

暮らしに大切なこと

複数家族で同居「共同保育」で育った27歳の本音という記事を見つけたとき、一瞬読むのをためらってしまった。悲惨な暮らしぶりだったら嫌だな、と思ったからだ。

ところが、子どものまなざしというのはまったく侮れない。実に冷静に客観的に当時のことを振り返っているのには驚かされた。

共同で暮らした沈没家族について、

「もちろん、大好きでしたよ。むしろ大好きじゃないと思ったことがない(笑)」

という言葉に、記者は

「まあまあ、よかった」くらいかな、と思っていたので、一瞬、驚いてしまいました。

と述べている。

家が汚くて、トイレが臭かったことなど、嫌だったことも話していたからだ。

みんなで共有する家だったので、友だちを家に呼ぶ気にならなかったとも話している。

それでも子どもにとって、いつも誰かしら自分を見てくれる大人がいること以上に幸せなことはなかったのだ。

また「沈没家族」の大人たちは、学校の先生のようなちゃんとした大人ではなくて、酔っぱらったりして、平気でだらしない素の姿を見せる存在だったというから、子どもの傍にいてくれる大人というのは、必ずしもお手本でなくてもかまわないと思うと、気が楽になる大人もいるかもしれない。

沈没家族は、生きていくためにやむを得ず、切羽詰まって始めた共同生活で、当時は賛否両論いろいろ言われてたいへんだったようだ。

だけど当事者たちは、経済的な面はもちろん、助け合いが成立していることを実感したとき、きっと幸せだったろうと思う。

よかったなぁ、とわたしも素直に思う。

大切なのは、助け合える暮らしだ。暮らし方は一つじゃない。

暮らしは、そのときできる人ができることをし合って支えていくものなのだ。

それが今、難しくなっていると思う。

共同で子育てしてくれる「保育人」を募集する勇気

沈没家族の始まりは、シングルマザーが共同で子育てをしてくれる「保育人」を募集するためにビラをまいたのが始まりというから驚く。

外国にはよくあるベビーシッターの学生バイトも、日本ではほとんど認められていない。

ネットで保育を依頼された男が、預かった子どもを無責任に死なせた事件もあった。確か預けた母親が大変なバッシングをされた記憶がある。

実親の虐待やネグレクトも後を絶たない。

「誰かいっしょに子育てしませんか?」

そう思っている人は少なくないと思う。

だからと言って、知らない人と共同生活に踏み切れる人は滅多にいない。

「いろいろな人と子どもを育てられたら、子どもも大人も楽しいんじゃないか」

とほんとに実践してしまった沈没家族の創始者である母親を尊敬する。

アドラー心理学に、

他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけない。

というのがある。

これは道徳的に「誰でも信じなさい。」と言っているのではなくて、いい関係を築きたいと思っている人に対しては、無条件に信じるのがよいというのだ。

はじめにまず信じる。これは勇気のいることだ。

沈没家族は、それができたんだなぁ、と思う。

たまたまメンバーがよかっただけかもしれない。

騙されない根拠や担保があって、はじめて信じる社会に住んでいると、助け合って暮らすなんて、非現実的なファンタジーとしか思えなくなる。

それが苦しい生きづらさにつながっている。

でも、沈没家族は実在したのだ。

そう思うと、何だか嬉しい。

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