父は高齢者施設でお世話になっている。久しぶりに会いに行った母の話では、わかっているのかわからないのか、寂し気に見える表情は乏しく、うかがい知れない。しかし、施設の看護師ににっこりするのを見て、よかったと母はいう。毎日お世話してくれる人のことは覚えているようだ。
そんな母も少し前まで、父が「目を合わせてくれない」と泣いていた。突然施設に入れたことを怒っているのだ、としょんぼりしたかと思えば、あれほどがんばって介護していたわたしを忘れるなんて、と腹を立てる。
情緒不安定になるのも無理がない。母が体調を崩し、父の入所が決まったのは突然。コロナ禍の慌ただしい別れだった。介護で忙しかった母は、急にひとりになってやることがなくなったのだ。
今は父がにっこりする相手がいることを喜んでいる。わたしもありがたく感謝している。
他者をケアする仕事
ブレイディみかこ氏の欧州季評(朝日新聞)を読んで、人類学者であるデヴィッド・グレーバーのことを知った。引用されていたグレーバーのことばが心に残った。
わたしたちは、わたしたちをほんとうにケアしているのはどんな人びとなのかに気づいた。ヒトとしてのわたしたちは壊れやすい生物学的存在にすぎず、互いをケアしなければ死んでしまうということに気づいたのです。(片岡大右『魔人は瓶に戻せない』D・グレーバー、コロナ禍を語るより)
グレーバーは何年も前から直接的に他者をケアする社会に欠かせない仕事をしている人々をケア階級と呼んだそうだ。コロナ禍は、互いにケアし合いながらどうにかこうにか生きている人の営みをあらためて知らしめ、そうしたケアの仕事を軽んじ、おろそかにしてきたことを突き付けるできごとになった。
感染症対策に意欲的に励んだ病院ほど経営難になったのは象徴的だ。誠実に、まじめに、ケアすればするほど馬鹿を見る。
ケアの仕事はどういうわけか儲からない。儲からないわりに重労働。だから善意や意欲に頼るばかりで人気がなく、社会的地位も低くなる。
わたしが子どもの頃は、教師や医師の社会的地位は今よりもっと高かった。アメリカは教師の給料が安く、アルバイトしているという話を聞いて驚いていたのを覚えている。今では日本もアメリカと同じような感じだ。
無意味に思える仕事に限って高収入で、本当に社会にとって必要な仕事ほど低賃金という倒錯した状況を生み、それが当たり前になっている。
そういう経済をどういうわけだか受け入れることになって、そういう経済の中で生きている。
グレーバーは、内心どうでもいいと思っている仕事をし、それなりの収入や社会的地位にある者もまた、道徳的、精神的な傷を負っているという。英国の世論調査では、37%もの人が「自分の仕事は世の中に意義のある貢献をしていない」と回答したそうだ。
喉元過ぎて熱さ忘れても
コロナ禍で思い知り、考えさせられたあれやこれやも、過ぎてしまえば思い出したくないこととして忘れてしまうだろうと言われる一方、世界が大きく変わる可能性を指摘する声も少なくない。
何を忘れて何が変わるのか、なんかコワイ。
ブレイディみかこ氏は、この特異なできごとが子どもたちの記憶の中に、何かしらの種をまいている、と結んでいる。
そんなヒトの思いとは無関係に、地球の気候が急変し、あっという間に人類滅亡なんてこともないとはいえないが、わたしもちょっとは未来に期待したい。
ケア階級の人々に感謝を伝える運動が伝えられている。
それを見ると、なぜか1994年のドラマ「家なき子」の「同情するなら金をくれ」という安達祐実ちゃんのセリフを思い出す。(古い。)志尊淳氏の1,000万円寄付にはびっくりして感動した。
なんかつい、お金のことばかり考えてしまう今日この頃。
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