ひきこもり主婦が人づきあいについて書いたりして恐縮です。
占星術なんかで「水商売が向いてる」とか「社交的」といった類のことが書かれていると、
「誰にでも当てはまりそうなことや指摘されたらうれしくなるようなことをほんとじょうずにちりばめてるもんだなぁ」
などとと思いながら、まんざらでもない自分がおかしい。
誰からも好かれる友だちの多い人に憧れない人はいない。
ならコミュニケーション能力を磨いて人脈をつくればいいかというと、何か違う。
人づきあいが苦手なら苦手なりに、人づきあいを大事にするやり方がある。
子どもの不登校で社会から孤立
わけがわからない体調不良で子どもが不登校になった。
当時は一刻も早く、もとの学校生活に戻してやらないとたいへんなことになる、と真剣に思っていた。
こういうと、なんか子どものためを思ってるような感じだけれど、ほんとは母親の自分が世間からあーだこーだ言われそうで嫌だったのだ。
うちの場合はいじめが原因じゃなかったのでなおさらのこと。
子どもは子どもでいろいろ混乱して苦しんでました。
わたしにはどうすることもできなくて、親子で追い詰められていきました。
担任の先生が訪問してくれるのも拒絶して、一時期ほんとに孤立してしまったんですね。
あのときはほんとに社会からはじき出されたような思いがしました。
今思えば、わたしが閉じてたんですね。
社会は一つじゃなかった
孤独になって考えることも、ときには必要なこともあるとは思います。
でもずっと閉ざしていては道は開けません。
自分だけではどうすることもできないと悟ったあるとき、とうとうスクールカウンセラーの先生に会う気になりました。
あきらめないで通い続けてくれた担任の先生のおかげでした。
会うと決めてからは、何が悪かったのか、思いを巡らせました。
思いつくことと言えば、子どもを不登校にしてしまった母親の言い訳ばかり。
責められると思っていたからです。
ところが、開口一番、
「お母さん、たいへんでしたね。がんばりましたね。」
と言われ、一気に緊張が切れて、思いがけずおいおい泣いてしまいました。
カウンセラーが相談者を責めるはずがない。そんなことは常識なのに、当時のわたしにはそんな知識も余裕もなかったんですね。
「母親は子どもを学校に行かせるのがあたりまえの社会」しか知らずに生きてきたわたし、そこに当てはまらなくなったらいないも同然。それが恐ろしかったんだと思います。
でも現実にはほかの不登校の生徒もいれば、そのお母さんたちもいて、支えてくれる人もいる。
社会はたった一つ、わたしが知ってるものだけじゃなかったんですね。
重なり合う集合の円みたいに、いくつもの社会が重なり合って存在している。
そのときはじめて知ったのでした。
発達障害の子どもが言うんです。
「自分のしんどさは完全に伝えることもできないし、完全にわかってもらうのも難しい。でも理解しようと努めてくれる人がいるだけでうれしいしありがたい。」
また、自分が理解されにくい発達障害だったから、ほかの障害者や高齢者、難病の人など、マイノリティの人たちに関心を寄せることができるけれど、もし自分が発達障害でなかったら、そういう人たちに無関心だったかもしれない、と話していました。
人づきあいをテクニックのように磨いて、役に立つ人や気の合う人とだけ知り合うことに躍起になったり、みんな仲良くしないといけないと思い込んだりしてしまうのは、それが誰もが正解と認めるたった一つの人づきあいのかたちであるかのように錯覚しているからではないでしょうか。
そもそも人はわかり合えないものなのかもしれません。現実は認めるだけでも難しいし、認め合えるってすごいことだったりします。
場合によっては距離をとって避けるのも人づきあいのかたちのひとつだと思う。
人づきあいを無理にきれいごとにする必要もないし、不自然に割り切る必要もない。
みなお互いに分かり合えない部分を持ち合いながら、いくつもの小さな社会が重なり合ってて、こっちがダメならそっちに移動して、どっちにも属する人がつなぎになって、むやみに争わず、笑って暮らせたら最高ではないか。
そのためには、みんながみんな、どこかのマニュアルどおり社交的だったら気持ち悪いし、案外居心地悪いかもしれない。
人づきあいは、閉じなければそれでいいとわたしは思う。
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