人が動き出すと、こうもみごとにウイルスも広がってしまうのね。少なくとも夏はひと段落できるのではないかという期待はあっさり裏切られ、このところ一気に緊張感が増している。
経済と感染対策の釣り合いがとれないまま、感染者が増え続けていきそうでコワい。
人は何をするにせよ、ひとりでは生きていけない。しかし、みなそれぞれに事情があって、それぞれが損得勘定し、それぞれの善悪で判断するからなかなかまとまらない。
誰だってできるだけ自分のリスクは抑えたい。でも、そのためにはどうしても人を信じて委ねなければならない場面があるから悩ましい。
「お金はやるつもりで貸せ」というけれど
貸したお金は返ってくることを期待してはいけないという。
本当に困って切羽詰まっている人を助けたいと思うのは人情である。しかし、同情できる場合ばかりではない。
周囲の助言に耳を貸さず、勝手に何度も同じような失敗を繰り返す者も少なくない。助けてもらうことが当然のような態度で、当てにされても腹立たしい。
そもそも人を助けている場合ではない。そう思うこともしばしばある。
ギャンブル依存症などの精神疾患の場合は、本当にどんなことがあってもお金を貸してはいけないと聞く。
お金に限らず、貸し借りというのはむずかしい。
自分が詐欺や災害で無一文になってしまったとき、いったい誰が助けてくれるだろうか。
そう思うと、やっぱり無理のない範囲で人には親切にして、まんざらでもない世の中であってほしいと思う。
それにしても、いったいどんな基準で人を信用すればいいのか。
マイナスを恐れると何も始まらない
貸し借りで損することを避けようとがんばればがんばるほど身動きができなくなる。
そのことを忘れて「ぜったい損しないぞ」と目をぎらぎらさせていた時期がわたしにもあった。損するのは馬鹿だ、などと思っていた。
そうすると、世の中のあらゆることを損得で考えるようになる。しかし、損得は明快なことばかりではない。何がどうすれば得なのか、簡単には計算できないと気づいた。
私利私欲だけでは解決できないこともある。
とうとうわけがわからなくなって、だんだん何もしないで何も考えないようになってしまった時期も長い。
そんなとき、世の中を回す運動は、他人に与えることから始まるという説を知った。
誰かが何かを贈ること、つまり損することからスタートするというのだ。これが正しいかどうかは知らない。でも、損することを恐れていると、何にも始まらないというのはわかる気がする。
損しても、必要なものはそのうち回ってくる。そう思えるのが信用するということだ。確かな担保があるから信用するわけじゃない。世の中が回っていれば、いいこともあれば悪いこともある。でも、何とかなる。
信じるとは、損する勇気と覚悟を持つことだ。
たとえ騙されて損しても、思いどおりにならずに失敗しても、どこかの誰かがきっと助けてくれる。そう信じて動くことが世の中を動かす。
損することを恐れず信じることが世の中を動かすスイッチなのだ。
とはいえ例の「GOTOキャンペーン」、中高年には少々リスクが高過ぎやしないか。
感染症対策には限界がある。感染者が増えれば感染が確実に広がることはこれまでの経験で実証済みだ。苦労して感染症対策に追われるだけ事業者や旅行者も気の毒な気がする。
今はもっと、ぎりぎりの医療体制の不安や不備を取り除くことに注力してもいいように考える。これこそ安心して旅行や観劇にも出かけられる、経済を回すための大事な対策のように思うのだが。
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