嘘はいけないというけれど、これだけ騙されないようにお互い気をつかわなくちゃいけないのは、わりと誰でも嘘をついてしまうものだからではないだろうか。
わたしは嘘をつくのがあまり得意ではない。就活なんかでうまく盛れない自分は正直者だと本気で履歴書の長所に書いたこともある。
しかし、人の記憶というのはいい加減で、自分に都合よく修正されるという。
わたしも遠い過去に、もしかしたら取り返しのつかないたいへんな嘘をついたかもしれないことをときどきふと思い出してコワくなる。
「かもしれない」というのは、本当のできごとだったかさえ、今となっては確証が持てないからだ。
Aさんの顔のあざはわたしのせい
それはわたしが小学校低学年、一年生か二年生、あるいは三年生だったかもしれない。
当時仲がよかったAさんと二人で鉄棒の練習をしていたときのこと。逆上がりの練習だったように思う。その瞬間のことがすっぽり抜け落ちたように思い出せないのだけど、わたしがよけいな手出しをして、Aさんの顔面に痛々しい赤黒い大きなあざができたのだ。
もしかしたらわたしがAさんを押してしまって、Aさんが鉄棒に顔面を打ち付けたのかもしれない。
なのに、Aさんは騒がなかった。わたしとは違って、もともと物静かで大人っぽい子だった。いっしょにいたわたしのほうが「何も知らない。わたしは何もしていない。わたしは悪くない。」などと騒いだために、Aさんは何も言えなくなってしまった可能性がある。
その後、わたしとAさんの関係が微妙になったのは言うまでもない。まともに謝ることもしないでうやむやに過ごしている間に、なんとAさんは転校してしまったのだった。
今思うと、親の都合で転校したのではなく、Aさんの両親がわたしを危険視し、Aさんを守ろうとしたのかもしれないなどと思ったりもする。
Aさんのあざがその後治ったのか、後が残ってしまったのか、治らない間にいなくなってしまったのか、よく覚えていない。
何にせよ、許されなくても「ごめんなさい」と言わねばならなかった。そんなことはわかっていたが、自分のしでかしたことの恐ろしさに足がすくんで、とても「ごめんなさい」と言えなくなったのだ。その代わりについて出たことばが「わたしは何もしていない」だった。実際にそんなことを言ったかどうかはわからない。でも、少なくともそう思いたかったことは確かである。
Aさんはさぞびっくりしたろう。きっとあきれてものが言えなかったろう。わたしを憎んでも仕方がない。わたしを探し出して復讐したいと思っているかもしれない。
そんなことをここ数年、一年に数回ふと思い出すようになった。若い頃はすっかり忘れていて、何年も思い出すことがなかったのにである。
実際にどういうことがあったのか、今となってはわからない。ただわたしが思い出せるのは、わたしに都合のいいことばかり。たとえほんとに何もしていなかったとしても、どういうことがあったのか、そばにいたわたしには説明する責任があったはず。何も言えなかったのは、おそらく言いにくい不都合なことがあったからではないか。そう思いながら、それでもAさんはそんなあざのこともわたしのこともすっかり忘れて、きっと幸せに暮らしているに違いないとか、そもそもそんなできごとすらなかったのではないか、と思ってみたりしている。
しかし、忘れっぽいわたしでさえAさんのフルネームを覚えているのだ。被害者であるAさんがわたしの名前を忘れることがあろうか。きっと軽蔑しているだろう。せめて顔のあざがきれいに消えていることを願うばかりなのだ。
嘘で身を守ろうとするとき
そんなわけで、わたしが今こうしていられるのは、Aさんが何も言わなかったからである。
わたしのように、ビビッて思わずほんとのことが言えなくなることもあるが、Aさんのように、不本意かもしれないし、哀れみかもしれないし、思いやりかもしれないが、ほんとのことを言わないこともあるのだ。
嘘は、人の身を守る武器の一つである気がしている。
裏切られないように騙されないように武装するばかりではなくて、裏切られても騙されても、致命的にならないリスク管理が大事ではないか。最近そんなことを考えている。
間違いを責める一方ではなく、だまって見逃すしなやかさを持つことは、できなかったAさんへの恩返しに代わる恩送りになるだろうか。
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