ふしぎなほど無条件に、楽しんだり幸せを求めることはいいことのように思っている。
でも、楽しみや幸せを快楽や欲望と言い換えたとたん、なんだか急に怪しげな景色に見えてくる。
発達障害と診断されたわたしの子どもの特徴の一つに過集中というのがある。
例えば一度パソコンに向かうと、寝食を忘れ、疲れても気が付かずにかかりきりになってしまうのだ。こうした性質は、いわゆる依存症になりやすいといわれている。
そういうこともあって、わたしはあらゆる依存症に関心を寄せてきた。
ヒトは誰でも快楽依存
麻薬とかアルコール、ギャンブル、ゲームに恋愛、人は何にでも依存する可能性があるようだ。そしてそのもとをたどれば、いずれも楽しい幸福感への欲求である。
それは、楽しいことを見つけて夢中になったり、幸せになりたいと励むのと、何が違うのか。同じじゃないの? そう思うとゾッとする。
『ホモ・デウス』では、ヒトはテクノロジーを駆使して、あらゆる欲望をかなえる方向に進んでいるとあった。でも、欲望にはきりがない。叶えばかなうほど、また新たな不満がより高度な欲望へと駆り立てて、不満はなくなることがない。歴史がその繰り返しを物語っている。ほとんど依存症と同じだ。
ヒトは快楽のために、その身を亡ぼすほど努力し続けるものなのかもしれない。
ほどほどにできないものか。
ブッダともう一つの解決策
ブッダがなぜ、すべての快楽から遠ざかるという厳しい教えを勧めたのか。
ヒトはあらゆる欲に取り込まれておかしなことになる。ブッダはそういうことがよくわかっているのかもしれない。
だからブッダは
快感への渇望を減らし、その渇望に人生の主導権を与えないようにする
という解決策を推奨した。
ところがヒトは
快感の果てしない流れを人間に提供し、けっして快感が途絶えることのないようにできる製品や治療法を開発する
道を選んできたのだ。
人生を楽しむとか幸せとか
テクノロジーの進化で世の中の変化がずいぶん速まっている。
明治生まれのわたしの祖母は、いくつもの戦争や不景気を経験し、世の中の変化を実感してきた人だった。そんな激動の時代を生きた祖母も「あれほどの変化は、もう起こらないだろう」と言って亡くなった。
当時まだ若かったわたしもそう思っていた。でも、祖母の予想はみごとにはずれている。
今はもう、数年後の自分の未来も見当がつかない。
おそらく今のままではいられない。何かしら変わりゆくことだけはわかる。
樹木希林のように、そんな変化のあれこれを面白がればいいのだろうけど、それにはまだまだ修行が足りませぬ。
スポンサーリンク