「損得」と「勝負」を抜きにして考えることってあるのかな。
家族間の人間関係でさえ、負い目があると強く出られず寛容になったりして、上下や強弱がなきにしもあらず。
対等というのは滅多にないバランス感覚ではじめて成り立つもので、隙あらば少しでも優位に立とうとするのが人の常。
だけどどこまでも「損得」や「勝負」を突き詰める暮らしは消耗する。
そんなふうに思うのは、わたしが損して負けてるから?
キクイモの「他人」と「自分」
キクイモは、わたしの住む地域で見かけるサトイモのような作物である。
そのキクイモが「他人」と「自分」の区別ができるという記事を読んだ。
「自分」というのは同じ親イモから育てた苗のことで、「他人」とは違う親イモから育てた苗のこと。
「自分」の苗を隣同士にして育てた区画では、根の成長が抑えられて、収穫が14%増えたという。
隣が「他人」なら、養分を巡る争いで労力を費やすが、隣も「自分」なら、けんかせず蓄えに回す。
(朝日新聞より)
キクイモは「自分」と「他人」をちゃんと区別して、無駄な競争はしないらしい。
「自分」と「他人」の区別は意外とむずかしい。
昔「人類みなきょうだい」と言うCMがあったけれど、「自分」と「他人」の区別は意外とむずかしい。
法律上は、戸籍がなければ「自分」は存在しないと同じ。
哲学上の自我なんていうのは、さらによくわからないつかみどころのないものです。
福岡伸一さんの『生物と無生物のあいだ』流にいうと、からだの無数の細胞は、日々入れ替わっているわけで、いったいいつのどこからどこまでが「自分」なのかと疑い出したらまったく気分が悪くなる。
「自分」と「他人」の区別なんて、案外あるようでないものなのだ。
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「損得」とか「勝負」とか言ってられない。
「損得」や「勝負」を考えるのは、つらいこともあるけど、おもしろい面もある。
優越感とか存在価値は、たいていそうしたところから得られるからだ。
でも、一方が得すれば他方は損し、一方が勝つってことは他方が負けるってこと。
ところかまわず「損得」や「勝負」を持ち込めばいいというものでもない。
お金を稼ぐために過労死して、利益や利便性のために環境を汚染して、考えが違うと攻撃する。
不毛な世の中にしてしまったのもまた、「損得」と「勝負」によるもののような気がする。
競争はあってもいいと思うし、損得勘定するのもまんざら嫌いじゃないし、ときに勝負するのも悪くない。
でも、他方の損失が大きくなり過ぎて、トータルでプラスマイナス0、あるいは負債を抱え込むような状況は明らかにやり過ぎ。
世界がつながり過ぎて、まっとうに競争できる「他人」がいなくなってしまったんでしょうか。
日本は人も少なくなることだし、キクイモのように、ここはしばらく無用な競争はやめて、本気で助け合える方法を模索しながら暮らしていきたい。
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