作文が得意になったらできること

sakubun tokui

作文講師をしていると、作文が書けるようになったら読解力も身につくし、勉強にも役立っていいことづくめだよ、と漠然としたことをいうより、志望校に合格するとか、起業に活かせるセルフブランディングができるよ、と具体的なメリットを示したほうがわかりやすいし、興味をひくことができると知っている。だけどわたしはそういうことはほとんど言わない。作文は、日本語ができれば誰でもできることだからだ。

わたし自身、作文を書くのに困らないし、嫌いではないけれど、とくに才能があるわけではない。誰でもやろうと思えばできるのが作文なのだ。そのわりには苦手に思っていたり、嫌いな人が案外多い。自分には必要ないと思っているのか、軽視しておろそかにしている人も少なくない。

きょうは、常日頃、残念に思っている作文にまつわるあれこれを書こうと思う。

作文を思いどおりに書くのがむずかしい理由

作文は書こうと思えば誰にでも書ける。ただ、思いどおりに書くのは簡単じゃない。

先日、わたしは自己PRが苦手だと書いた。どんな作文にも人柄があらわれるというが、そんなことはない。作文スキルに長けていると、どんな人にもなりきって作文が書ける。主観的な文を入れない客観的な記事を依頼されることもある。

ところが、たとえスキルがあっても、作文は書けないことがある。気分が乗らないといったこともあるが、何より自分が書きたくないと思っていることはうまく書けない。内心空々しいと思っているようなことは、いくら言葉を並べてごまかしても、かえって大げさであざとくなってしまうのはわたしだけだろうか。どうにか書いたとしても、自己嫌悪で消したくなる。

思考はじっとしていないことも作文をむずかしくしている。言葉で思ったり考えたりしていることは、たえず揺れ動いている。作文に書くというのは、その思考を写真に撮るようなもの。書いたとたん、何か違う感じがしたり、言葉にならない感覚は、言葉にしたとたん、思っているのと違う気がする。そうすると、ほんとにこういうことが書きたかったのか、これが伝えたいことなのか、自信が持てなくなるのだ。

作文が得意になるということは

作文が得意になるということは、文章がうまく書けるということではない。

きちんと自分と向き合って、表現したいことが整理できてて、書きたくないことはスマートに避けつつ、伝えたいことを届けられる作文が書けるようになることなのだ。

自己PRが苦手などと言っているわたしはまだまだなのである。

作文が得意になるということは、思いどおりに生きていくための最強の能力の一つだと思う。

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