集団生活とプライバシーの折り合い

oriai190822

豊永郁子氏の「政治季評」におもしろいことが書かれていた。

トランプ支持者には権威主義者が多いということがわかってきたとか。

権威主義とは、アメリカ政治心理学者ステナーによると、一つであることや同じであることを求める思想のことで、違いを嫌い、多様性を苦手とし、強引でも規律を重視する強いリーダーを好む傾向があるらしい。

「わたしは違う」と思ったあなた、要注意。

「同じ」という概念は人間独特のもの

養老孟子氏によると、人間は外からの刺激を個別に処理する感覚だけでなく、ことばを持つようになって、何でも同じにしたがるはたらきを持つようになったという。

「痛み」というと、ほんとはみなそれぞれ違う「痛み」があるのだけれど、とりあえず「痛み」としてみな同じにしてしまう。あたりまえのことのように思っているけれど、鏡に映った姿や写真の中の人を、同じものと認識できるのは、じつは人間独特の能力なんだとか。

動物も訓練すればわかるという説もあるけれど、養老氏は「動物には同じという概念がない」という意見。

ヒトの大きな脳は、個別の情報処理を同じにするというはたらきで省エネしているらしい。

つまり、人間誰でも同じにするという権威主義的傾向を持っているということなのだ。

豊永氏は、

権威主義は決して異常な傾向ではない。誰もが集団に従うことと、個人の自由との間で折り合いをつけて生きている。そのバランスが前者に傾く人が権威主義者であり、その反対がリバタリアン(自由至上主義者)だ。

といい、養老氏もまた、

ヒト個人に意識と感覚が併存するように、世界に同一化と差異とが併存する。もともと両方あるんだから、万事は釣り合いの問題に過ぎない。それは究極的には個人の内部での意識と感覚の釣り合いに還元する。

と述べている。

権威主義に傾くスイッチ

こうした個人が持つ権威主義的傾向は、ふだんはあまり表に出てこないらしい。

ところが、ある一定の条件下で活性化されて顕在化するというのである。

政治指導層に問題があると思う時、あるいは社会から共通の価値観が失われていくと思う時、「違い」に対してより不寛容になる。それは人種関係、道徳観、政治的見解、刑罰など、寛容が問われる全ての領域で起こる。

まとまらない危険を察知したとき、まとまろうとする権威主義的傾向のスイッチが入るのかもしれない。

トランプ氏は、人々が潜在的に持っている権威主義的傾向をうまく活性化させることに成功しているようだ。

日本だけでなく、世界中の権威主義的傾向のスイッチを押してしまった感じである。

バランス感覚養いたい。

一時、体幹トレーニングが流行りましたよね。

サッカーの長友選手は、体幹を鍛えているから倒されない、と当時絶賛されていましたっけ。

からだ同様、思考も極端に振れないバランス力が大事ではないかと思う。

時代や環境によって、多少傾いておっとりをとるのはいいけど、振り切って身を滅ぼすようなことがないようにしたい。

ひとりひとりの思考が政治や世の中を変えることはできないとしても、ひとりひとりのバランス力が自分の身を守ることになり、ひいては世の中がおかしな方向に傾かない重しになると信じたい。

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