政治や事件、身近な生活のこと、どこにもかならずいろんな対立があってうまくいかない。
どうして人間、仲良くすることがこんなに難しいんだろう、と思う。
そんなとき、養老孟子氏の「ヒトの脳のクセだから」という見解がすとんと腑に落ちた。
ヒトの脳で意識と感覚が対立している
ヒト個人に意識と感覚が併存するように、世界に同一化と差異とが併存する。もともと両方あるんだから、万事は釣り合いの問題に過ぎない。
それは究極的には個人の内部での意識と感覚の釣り合いに還元する。
養老孟子『遺言』より
人間の脳は、一番新しく作られる大脳新皮質という部分が大きいらしい。そこは、外の変化を受け取る「感覚」の信号と言葉で解釈する「意識」の信号がぶつかり合う部分なんだそう。
ここでいう「意識」はきちんと定義されたものではない。
自己意識は論理的には自己言及の矛盾を起こす。その問題が解けていないのだから、意識をそこから議論する、あるいはそこにこだわるのは、生産的ではない。
養老孟子『遺言』より
ただ、意識というのは、
- 感覚より優位に立とうとする。一番偉いと思っている。
- 何でも「同じにする」というはたらきがある。
- 意識で支配できないものは排除する。
という、けっこう権力者っぽい特徴があるんですね。
これによると、意識は管理不能な感覚を嫌い、徹底的に排除する傾向があるということになる。
人間が自然を嫌い、人工的な都市化を進めたがるのもこの意識のせいらしい。
感覚はほとんど「差異」だけでできてるから、「同じにする」意識にとっては大迷惑な存在。
こんなふうに脳内で対立しているとすれば、他者ともめるのも無理ない話か。
「意識」の上にあるもの
「多様性を認める」という意見は「多様性を認めない」という意見には賛成できない。
「多様性を認める」と言っておきながら、考えてみたらおかしな話。
意識である理屈は、こんなふうに突き詰めると矛盾が生じるものらしい。
じゃあ感覚のほうが偉いかというとそうでもない。
錯覚することも珍しくないし、意識に取り込まれやすく、今一つ頼りない。
こんなだから結局、今の世の中「意識」が圧倒的に強い。
あまりに強過ぎて、感覚の存在がないことにされていることにも気づかなくなってきている。
ところがそれを「何となく変。」と感じられるのがヒトの脳のスゴイところ。
こんなに「意識」に偉そうにされていても、言いなりにならない「感覚」の信号をどこかでちゃんとキャッチしているのだ。
わたしが仲良くできない現実を何となく危惧しているのも、道徳とか理屈ではないのかもしれない。
人間は人間である以上、意識を無視することはできない。だけど、この意識がどういうものかということをある程度学ぶことはできる。
学問こそが典型的に意識の上に成り立っている。
養老孟子『遺言』より
養老孟子氏は、感覚入力を意識が都合のいい一定のものに限り、意識しか扱わず、意識だけの世界に住み着いたおかげで、人々が自然との向き合い方を忘れてしまったところに現代社会の問題の根本があると述べている。
意識には、どうも俺様気質がある、ということを知るだけでもずいぶん違う。
「自分たちはいいことしてる」と思っていると、絶対にろくなことはありません。
「いいことをしてない人」に強く働きかけようとしたり、いいことをしているのだから、と、図々しく声高になったりしやすくなります。
糸井重里『今日のダーリン』より
思いどおりにいかない他者との関わりは、まさに差異だらけの混沌とした感覚の世界。
でも、そんな中で何かしら「同じにする」何かを見い出すことができるのもまた、ヒトの脳だと信じたい。
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