資本社会で「何でも買えるよ」と洗脳されると、お金がないと何もできないように思う。
社会に問題があると思ってたけど、人間には生物的な感覚部分と、ことばで考える合理的な部分の両方を持ち合わせていて、それがうまく折り合えないとき、極端に振れやすいという人間の特徴のあらわれに過ぎないんだな、と思うようになった。
誰にでも競争して勝って奪い取りたい衝動がある一方、平和を求め、慈愛を好む面もないではないのが人間というもの。どちらか一方に傾くというのは、人間にとってかなり負担なのではないか。
とはいえ、養老孟子さんが述べているように、両方あるんだからしょうがない。うまく釣り合いをとっていくしかない、というのが今のところわたしが一番腑に落ちる考えだ。
「お金がなくて死にたくなる」ような暮らしは、ちょっと度が過ぎていると気づけるかどうか。
折り合える余地がかならずある。
お金がないと教育できない妄想
教育格差なんて言葉を頻繁に耳にするようになった。
オンライン作文クラスに参加する子どもたちも、比較的裕福な子どもたちだとわかる。いまどきの子どもたちが安全に自然と触れ合うような課外活動やスポーツに参加するには、びっくりするほどお金がかかるらしい。文化的で豊かな体験ができるのは、裕福な子どもたちだけだというのである。
確かに多少そうした傾向はあるかもしれない。でも、お金をかけなければ、文化的で豊かな体験ができないという発想が、すでに貧しいと思う。
家族の仕事の手伝いに追われる子どもたちが何も体験していないわけではないし、漫画や読書に明け暮れている子どもたちが文化的でないとは限らない。ぼんやり家で過ごす時間が、子どもにとっては充実した時間かもしれないのだ。
みんな同じように塾に行き、同じようにおけいこに通い、同じように海外旅行に行かないとかわいそう、と思うほうがおかしい。
子どもがそれぞれの環境でおもしろく楽しく過ごせるかどうかは、周囲の見守る姿勢にかかっている。おとなに余裕がなければ、おとなが幸せでなければ、そばにいる子どもは幸せになれない。ほかの子どもたちと同じでないことを不満に思う子どもは、そばにいるおとなが、同じような不満を持っているからではないかと思う。
世間並みの暮らしにこだわって、みんなと同じような生活をすることで安心したい気持ちはよくわかる。でも、事情が多様化している今の世の中では、みんなと同じがかえって負担になる場合も少なくない。
作文教室や作文キャンプのようなことは、お金を払って教室やキャンプに参加しなくても、家庭で同じことができる。教育は、ひとりで勉強する力を養うもので、その環境とサポートをするのがおとなの役割。お金をかけなくてもやろうと思えばできることがいくらでもある。実際作文教室では、家族に子どものサポートをしてもらい、指導らしきことはほとんどしない。日本はさいわい、基本的な読み書きの学力は義務教育で学ぶことができるので、先生が一方的に教えることは本来何もないのだ。
教育にお金をかけた人ほど、稼げる人になると言う。でも、お金をかけたからといって、稼げるようになるとは限らないと気づいているだろうか。一流企業に勤めたり、医者になっても、過労死しては元も子もない。
稼ぐことが一番の目標になっているところにいびつさを感じないとすれば、どこか偏っていないか注意したほうがいいかもしれない。
とにかく、何でもお金がないとできないと思いこむのは、ほどほどにしたほうがいい。
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