実際に行動するときと、想像はしても実際にはやらないときがある。何が違うんだろう。
この頃そんなことをよく考える。
実践するときと妄想で終わるときの違いは
実際に行動するのと、考えるだけで終わる場合の違い、一つには環境とか背景があるかもしれない。
ただ同じような境遇であっても個人差はある。その一方、誰もがスイッチオンになりやすい状況というのもありそうだ。
誰もがオンになりやすい状況というのは、「踊らにゃ損」的な、行動しないと損するといったような時流みたいなものがあるときだ。
また、想像はしても実際には行動しないようなことに対して、まれに暴走スイッチが入ってしまうといった場合もある。たまたま個人的に行動スイッチが入りやすい状況に置かれた場合、行動に至らないという判断が鈍ることがある。たまたま背中を押すきっかけが起こったり「行動するしかない」と追い詰められたりする事情があったりするような状況が考えられる。
どうすればそのような危うい状況にあっても、暴走しないで踏み止まれる側でいられるだろうか。
人はどんなふうに追い込まれ、追い詰められてしまうのか。
机上の空論と言われるかもしれないが、そうした状況を知っておくだけでも違うとわたしは思っている。
「一線を超えるか超えないか」といった選択を迫られることは、誰にでも起こり得る。
もちろん、誰もやっていないことを真っ先にすることがすばらしい場合もたくさんあることを忘れてはいけない。
ミステリーの醍醐味は
ミステリーは、犯人の心理が想像できなければまったくおもしろくない。殺してしまうほどの狂気を想像してはじめて物語に没入できる。当然登場人物は共感できる人物ばかりではないし、犯人の動機にすべて同情できるわけでもない。
しかし、犯人が誰なのか、なぜ、どのようにして犯行を成し得たのか。その謎を解くのがミステリーの楽しみである。
物語は簡単に解明できるようにはできていない。むしろ読者を混迷させるようなくふうがこらされている。それをひとつひとつ丹念に読み解くには、たとえ共感できない嫌な奴だと思っても、その人物になりきらなければいけない。そうしてはじめてわかることがある。
作品は謎を謎のままなるだけ引っ張って、読者を騙そうとする一方、登場人物の個性的で特殊な心理状況を、いかに説得力と真実味をもたせようかと苦心されている。犯人や関係者の告白が大げさで冗長になりがちなのは、そのせいかもしれない。
意地悪なマニアたちは、そのわずかな不自然さを突いてくる。わたしはそうした批判的なレビューを読むのも好きだが、いっそ作品のドラマにどっぷりハマっておもしろがるほうが楽しいと思っている。
唐突にミステリーの話をしたのは、実行と妄想の境目を考えることは、違和感を越えて他者の思考を考えるミステリーと似ていると思ったのだ。
西洋では、自分とは異なる理念や信念を持つ人や共感や同情できない立場の人の考えを想像してみる知的作業のことをエンパシーといい、最近注目されている。価値観を共有する者どうしが仲良くすればいいという時代ではなくなってきているのかもしれない。とはいえ、格差や分断が問題になっているのは、共有すべきたった一つの正しい価値観があるという妄想のせいか。
とにかく、世界には自分とはまったく違う思考をし、思いがけない行動をする者がいて、自分もまた、いつ思考が変わり、突拍子もない行動をすることになるかどうかわからないのだ。
そのことを知っておこうと思う。
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