ほめればいいというものではない理由

homeru

作文講師の仕事は、生徒の作文のいいところをほめることだ。だからというわけではないが、わたしは万事ほめることはいいことだと思っていた。

ところが、アドラー心理学によると、ほめるというのは、上のものが下の者に対して行う行為で、対等な関係では行われないという。言われてみればそうだ。上から目線な気がする。

対等な間柄でうかつにほめると、馬鹿にしているとか、からかわれていると思うかもしれないし、お世辞ととられるかもしれない。

「ほめごろし」などという言葉もあることだし、最近は、むやみにほめないほうがいいと思うようになった。

批評・批判がしにくいらしい

百田さんの小説をヨイショする感想文キャンペーンに非難が相次ぎ、たった2日で中止になった件で、朝日新聞の記事に気になることが書かれていた。

出版社や書店がほめるコメントを欲するのはわかるけれど、読者も批判を求めない傾向があるというのだ。

そうかなぁ。素人読者はレビューで好き勝手なこと書いてるよね。

ところが一般的に、批判の書評は書かない傾向にあるのだとか。

なるほど新聞の書評記事で批判的なものは見たことがない。

犯罪行為をした人や団体について触れただけで非難の的になるご時世である。めんどうな論争に巻き込まれたくない気持ちもわからないではない。個人のツイートでさえ炎上してしまうのだから、書き手が臆病になってもおかしくない。

読者は罵り合いを見たいわけではない。まともな批判ができなくなって、ほめちぎる文ばかりが出回ってはかえって気持ち悪い。敬意を持った堂々とした批評が見てみたい。

ほめるのも中傷するのも、敬意を表していないという意味では同じことなのかもしれない。

「ほめる」行為が上から下の間柄でなされるものなのか、ほんとのところはわからない。でも、ほめられるとうれしいからほめられようとすることや、ほめたら喜ぶからほめることの間に、敬意があるとは思えない。

だからほめればいいってもんじゃないし、ほめてほしいなんて思うもんじゃないのだ。

じゃあ、人を尊重する言葉とは何だろう?

わたしは興ざめすることが多いのだけど、「感動をありがとう!」はなかなかいいフレーズではないかと思う。

人を大事にするとき、わたしは「ありがとう」にかなう言葉を知らない。

アドラー心理学入門

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