民主主義が危ないってほんと?

democracy

民主主義といえば選挙というイメージだけど、最近は投票ほど当てにならないものはない感じになってきている。多数決というのがそもそも胡散臭い。話し合いで折り合いをつけるのが本当なんだけど、そんなことむちゃくちゃめんどうでやってられないから選挙するようになったのよね。

それでいつの間にか多数派とか、大きくて目立つ声が有利になってしまった。

数や声の大きさで民意を評価するからおかしなことになる。

対話の行き着く先はわからない

先日、死に方を話し合う人生会議に立ち会う医療や福祉関係者の人たちの話を聞いた。

当事者は、体調によって日々気持ちが揺れ動く。だから負担のない範囲で、人生会議は、何度も繰り返すことが大事だという。結論を出すことが目的ではなくて、それぞれが話したり聞いたりする過程を大切にする。そうした時間を共にすることで、ふしぎなことに、それぞれの思いが落ち着くところに落ち着いていくみたいなのだ。

胃ろうしてでも家にいたいと言う父親の気持ちを知り、胃ろうに反対だった子どもたちは、驚きながらも徐々に受け入れていくようすは生々しかった。

当事者の多くは、家族に本音を言わない、という話は少しショックだった。「ほんとは治療をやめて、家に帰りたい」などといった弱音やわがままを言わないまま亡くなる人が少なくないのだそうだ。子どもの希望にこたえるのが親としての最後のつとめと言い、最期まで苦しい治療を続けて亡くなった人もいるとか。家族に語られることのない本音をそっと受け止めるのが第三者である関係者のつとめなのだ。

本音を言い合うことが必ずしも正解とは限らない。どんな結果にも後悔はつきもの。それでも対話する機会が持てるなら、それは最大限大切にしたほうがいいのだ。

発達障害のうちの子とチャレンジ雇用の職場担当者の場合もまた、我慢強い対話の積み重ねによって関係が充実した例であった。契約どおり勤められないことをストレスに感じ、もうやめるしかないと思い詰めていたうちの子に、無理のない範囲で調整しながら契約終了まで働くことを提案し続けてくれた職場の方には感謝しかない。

お互いの誤解が改まり、気持ちを変えることができたのは、感情の行き違いにめげず、我慢強く繰り返し話し合いをしたからだ。

意見が違う人とは理解し合えない、と対話の席にすらつかないのは、じつはとてももったいないことなんだとわかった。自分の意見を通し、不平不満を解消するのが話し合いではない。対話の行き着く先は、誰にもわからない。話したり聞いたりを繰り返しながら、両者の落ち着く先をさまよい続けるのが話し合いというものなのだ。

話し合いが結論を急ぐ勝負ごとのようになってしまった現在、充実しようがないのも仕方ないのかもしれない。

感情的になったまま対話をやめてしまうのは簡単。でも、それはもったいない。そう思ったら、めげずにまた対話を始めよう。

そんな積み重ねが民主主義を守ることにつながるのかも。

大事なことは小さな声で

印象に残っている記事がある。

東京大学教授の阿部公彦さんの著書を読んでいて、気になる文章を見つけた。

「負けたり、弱かったり、だめだったりする。そんな言葉が社会の中でむしろ意味を持つこともある」とあった

記者は阿部さんを訪ね、

きみが本当に正しいと思うなら、叫ばなくていい。なるべく小さい声で話しなさい。

と言っていた自分の祖父の言葉について聞いてみた。

唐突な問いにもかかわらず、英文学者は教えてくれた。

「英語では大事なことを言うときに、あえて強調ではなく、『perhaps(もしかすると)』と表現をぼかすことがある。小さい声もそうではないですか」

大切なことは強い断定調では逆に伝わりにくくなる。愛をささやくとき、親しい人を失ったとき、簡単に言えない何かを伝えるとき、私たちはむしろ弱く、あいまいに言葉を使ってきた、と阿部さんは言うのだ

目立ったもの勝ち、多いもの勝ちの世の中で、ほんとに大事なことは小さくて地味なのだ。

気をつけなくちゃ。

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