自分が知らないことの中には、「知らずにいたい」という切実に積極的に目を背けていることがらが含まれているそうだ。
たとえば、お金のこととか、健康のこととか、夫婦生活のこととか、人づきあいのこととか。
考えても答えが出そうにない、わからないことについては、どうしても「知らないこと」にしたくなるものらしい。
検索すれば、たいていのことが調べられる現代、問題解決しないと価値がないと思い過ぎていませんか。
「知らないこと」にちゃんと向き合って、「知らないこと」としてちゃんと置き続けることも大事だと思う。
「知らないこと」と向き合うと不安が減る
「知らないこと」を「知らずにいたい」こととして、なかったことにしてはいけません。
知的探求は(それが本質的なものであろうとするならば)、つねに「私は何を知っているか」ではなく、「私は何を知らないか」を起点に開始されます。(内田樹『寝ながら学べる構造主義』より)
「知らないこと」の中には、じつは「知りたくない」と目を背けているものがあって、ぼんやり嫌な感じだけがだんだん大きく育ってしまうことがある。
かつてわたしも家計の現状について「知りたくない」と思っていたら、どんどんどんどん憂鬱になってしまったことがありました。
答えを出すことが大事なんじゃない。
それは「知りたくない」問題と向き合ってはじめてわかったこと。
解決しなくても、向き合うだけで不安が減るんです。
コワイものがどこかに隠れているんじゃないかとビクビクするよりも、コワイものとちゃんと向き合って、知らずにいることが何かを知ると、案外ラクになるのではないかと思う。
解決しなくてもできることがあると気づく
「知らないこと」と向き合って、どんどん突き詰めていくと、「これぐらいだったらできそう」ということが見つけられることがある。
もちろん何もできない無力感を思い知ることもある。
それでもそのうち「こんなことしても意味ないか」レベルのできることが見つかるかもしれない。
解決に導けない「焼け石に水」でもかまわない。
何ごともない問題先送りでも上等。
「知らないこと」を「知らずにいたい」ままでいたら、きっと時間を稼ぐことも元気で過ごすことも難しくなる。
「知らないこと」と向き合うと動じなくなる
答えが出ない根源的な問いと向き合っていると、ものごとを大局的に見られる瞬間がある。
それはどこか現実逃避に近い感覚。
自分の個人的で深刻な悩みが小さく感じられてきて、やがて「なるようになる」と動じなくなる。
生きていれば誰にでも何かしら問題がある。
問題は自分だけが抱えているわけじゃない、と気づくだけでも違う。
「知らないこと」は向き合ってはじめて、解答することだけが大事じゃないとわかる。
答えが見つけられなくても、できることを尽くしたい。
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