死ぬまで働く時代になりそうです。
人間はお金のためだけに働いているのではない、などと言いますが、だったら何のために働くのでしょう?
わたしの場合は……。
賃金が上がっても人手不足は解消しない。
賃金が上がっても人が集まらない職場が増えてます。
それはそうでしょう。いくら賃金が高くても、仕事なら何でもいいという人ばかりではない。
よく「仕事を選ぶなんて贅沢だ」と言いますが。
仕事を選んでられない状況には同情するけれど、仕事を選ばない人が偉いとも思わない。
確かにハードな仕事を文句も言わずにこなせる人は偉いと思う。だからと言って、それができないとダメというわけではないと思う。できることとできないことはみな違うし、がんばり方もみな違う。
働くことに気力をなくしてしまうこともあれば、事情で働けないこともある。それでもみな懸命に生きている。
わたしはというと、無理な仕事はしたところで続かないし、自分に都合のいい仕事もない。できることも時間も限られている中、年々自信を失いつつある。そんなこんなで「働きたくない」と言ってみたりするのだけれど、内心は働けるものなら働きたいと思っている。どこかで何かしらできることをしたいと思っている。
お金がほしい。だから働きたい。という正直な気持ちもある。
お金が生活のすべてを握ってるように思うこともあるけれど、案外そうでもない。いくらお金をもらってもできないってこと、誰にでもあるでしょう? 実際はお金のために生活のすべてを犠牲にはできないものなのだ。
どこかでいつも、ちゃんとお金と引き換えていいモノの重さを天秤にかけて生きている。ときどき間違ったりするけれど。
人はお金のためだけに働かないのだ。
どうして働くか?
『アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ』によると、人はお金のためだけでなく、貢献感を得、自分の価値を見出すために働くとある。お金のためだけだと、なかなか働き続けることは難しいものらしい。
もしわたしが家事でじゅうぶんな貢献感を持てるなら、働きたいと思わないかもしれない。
実際わたしが家事をして得られる貢献感は低い。
この頃は家族から働くように説得される主婦もいるとか。育児や介護などの重労働家事をこなしながらも働いている人が少なくない。働かない主婦は肩身が狭いのだ。
考えてみれば、昔から農家や商売人の主婦たちは忙しく働いていた。内職をする主婦も少なくなかった。専業主婦のほうがごく最近限定の主婦像なのかもしれない。
ところで、わたしの家事にはどうして貢献感がないのか?
先の『アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ』によると、貢献感は他者の役に立っていると感じられるとき得られるとある。わたしの家事は、家族のためというより自分のためにしているところがある。おとなばかりの家族なので、基本的に自分のことは自分でできる。少々家事が行き届かなくても支障をきたすことはないのだ。だから家事をしても貢献感がないのは当然かもしれない。
むしろ家族は家事よりわたしが働いて稼いでくれるほうが喜びそう。
だからわたしが貢献感を得たいなら働くしかないんです。
「働くしかない」なんて言ってしまうと、何だか悲惨な感じがするけれど、そう悪いことじゃない。働くことは自立にもつながるし、自立とはすなわち自由な暮らしのことでもある。考えてみれば死ぬまで元気で働けるほど幸せなことはない。
老後資金に悩むヒマがあったら長く働くことを考えたほうがいい。働くほど貢献感が得られて幸せになれるのだから働かない手はない。
これがわたしの働く理由です。
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