「世の中のせいにしちゃいけない」「周囲のせいにするのは卑怯だ」というようなことを教わってきたように思う。
ところがこの頃は何だかようすが違ってきた。
貧困は社会のせい
個人が責任を負うにはあまりに理不尽という考えが出てきた。生まれた国、生まれた家ではじめからとんでもない格差があることにみな気づきはじめたのだ。
どうしてそんな格差が生まれたかと調べてみたら、一部の人が富を独り占めするように社会ができているというではないか。さらには犯罪もまた、個人の資質ではなく、社会が作り出すものだという意見もある。まあ確かに、突き詰めれば何でも社会のせいなのかもしれない。
でもそれはそれで、個人は何をどうすることもできないということになってむなしくなる。
そんな社会に誰がした?
とんでもないこんな社会をじゃあいったい誰がつくったか? 悪いやつを特定し、やっつけたい気持ちは山々だ。ところがそれがどうにもできそうにない。相手が強大だからというのもあるかもしれないが、そもそも誰と特定できないからだ。
たとえ権力者を特定してやっつけたとしても、おそらく次々同じようなのが入れ代わり立ち代わり出てくるだけで、社会はいっこう変わらない。社会が格差を生み出すようにできているからだ。
そしてそんな社会を支えているのが誰でもないこの社会に依存して暮らしているわたしたちだというのだから嫌になる。
どうにかする方法はないものか?
わたしにできること
『父が娘に語る経済の話』の著者は、格差社会に憤る十代の娘に対し、次のような励ましの言葉を贈っている。
人間は、自分が何かを持っていると、それを当然の権利だと思ってしまう。何も持たない人を見ると、同情してそんな状況に怒りを感じるけれど、自分たちの豊かさが、彼らから何かを奪った結果かもしれないとは思わない。
貧しい人がいる一方で、金持ちや権力者が、自分たちがもっと豊かになるのは当然だし必要なことだと信じ込むのは、そんな心理が働くからだ。
しかし、金持ちを責めても仕方がない。人は誰でも、自分に都合のいいことを、当たり前で正しいと思ってしまうものだ。
それでも、君には格差が当たり前だとは思ってほしくない。
(中略)
君には、いまの怒りをそのまま持ち続けてほしい。でも賢く、戦略的に怒り続けてほしい。そして、機が熟したらそのときに、必要な行動をとってほしい。この世界を本当に公正で理にかなった、あるべき姿にするために。
今の世の中があたりまえだとあきらめずに、おかしなことはおかしいと思い続けることが大事なのかもしれない。
ただそんなふうに思っているだけでは何にも変わらないし、機が熟するそのときなんて永遠に来ないかもしれない。
それでもこの社会がどうしてこんなふうにできてしまったのかを知る機会が持てたことは幸運と思いたい。
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