ほかの人はどんな具合か知らないが、五十の半ばを過ぎたあたりから、定期的な通院を余儀なくされたり、視力も定まらず、何をするにも以前のようにはかどらなくなった。アンチエイジングだ若見せどころではない。あたりまえの健康維持だけでいっぱいなのだ。
老化は避けられない。そんなあたりまえのことを何となく流して過ごしていたら、どんどんできないことばかりが増えてきて、嘆いているだけで一日が終わる日が続いている。
今年は老いを受け入れながら、もっと今を大事に暮らそうと考えた。
できることとできないことの仕分け
以前のようにはできない。今年はそれを前提に、まず受け入れることから始めた。
時短や効率化で何とかするのではなく、思い切ってやめてしまうことも視野に入れ、漠然としていたやりたいことを整理して、年をとっても最後までできるといいなあと思うことを絞ってみた。
残ったのが三つ。
- 睡眠
- 体操
- 読み書き
ここには家事など身のまわりのことは入っていない。おそらくできることは徐々におのずと限られてくるだろう。それはなるようにまかせようと思っている。しかし、最後まで読み書きしようと思うと、やはり健康でなければ難しい。だから最低限の運動と睡眠を大事にしようと考えた。
睡眠は、認知症予防に何よりいいのではないかというのがわたしの考えである。対話がいいとか家事がいいとかいろいろ言われているが、睡眠が一番続けやすい。毎日最低八時間は寝るように心がけている。
この三つが残れば、ほかのことは最悪できなくなってもかまわないぐらいに思うことにした。読み書きができれば、多少身の回りのこともできるかもしれない。
食事はいいのかといわれそうだが、歯を失えば、食べるのはなかなか大変になりそうだ。母も五十代の頃は痩せたがっていたのに、今は祖母と同じようにやせっぽっちになってしまった。わたしもだんだん食べられなくなって枯れていきそうな気がしているが、こればっかりはわからない。食べたくても食べられない時代が来ないともいえない。
何が何でも自分のことは自分でする自由な老後を理想に励むのもいいが、残念ながらあまり現実的ではなさそうだ。多少不本意であっても、助けてもらいながら不自由に暮らす覚悟も必要だと思い出している。もしも長生きすれば、浦島太郎的な誰とも分かち合えない孤独感にも耐えないといけないかもしれない。
それでも終わりまで読み書きできたら本望だ。そういうものがあることは幸せなことである。
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