作文をわざわざ習いに来るのには、それなりの理由がある。一番わかりやすいのは受験や就活対策。なかには純粋に文章がうまく書けるようになりたいという人もいる。
この頃は、これといった目的もなく、早々におけいこごとの一つとして習いに来る子どもたちも少なくないようだ。
何でも早いのがいいとは思わないが、早くから作文に親しんでいる子には、いわゆる作文アレルギーがない気がする。
ほぼ日の糸井さんも、たしか小学生のころは作文が大嫌いだったと言っていたように思う。とくに「好きなことを書け」といわれたときが苦痛、といった感じのことを述べていた。わたしの母も、しばしば作文が大嫌いだったという。母の時代は、露骨に勉強のできる生徒をえこひいきする風潮がまかり通っていて、大人たちの喜ぶ作文を書く生徒は、たいてい先生お気に入りの優等生だったらしい。
こうしてとりあえず、何でもいいから書けと言われ、苦労してようやく書いた作文も、評価されなかったりすれば、おもしろくないし、嫌いになるのもあたりまえかもしれない。
作文嫌いは思い込み
お絵かきと同じように作文する子どもたちを見ていると、作文をとくに嫌う理由はないように見える。人はことばで思考している。それを作文にすることは、面白いと思わないまでも、嫌いになるほどのものではない。
わたしは絵をかくのが苦手である。ちょこっと漫画やイラストがかける人がうらやましくてたまらない。かわいいイラストをなぞって練習したこともある。しかしこの頃はすっかりあきらめてしまった。
だからといって、絵をかくことが嫌いかというと、そんなことはない。「かけ」と強いられることがほとんどないからかもしれない。
一方、作文は書けないより書けるほうが何かと便利である。しかし、誰よりも上手である必要はない。自分にとって大事なことが最小限表現できればいいと思うのだ。その程度は、人それぞれでかまわない。この点、かなり誤解している人が多い気がする。
作文は、どういうわけか嫌いと思い込んでいる人が少なくない。というのも、作文は「てにをは」といった文法を正しく使いこなすのはもちろん、充実した個性的な内容で、表現豊かに書かなければならないものと信じて疑わない人が多いからだ。作文に期待しすぎである。こんなのが全部できれば、誰でもプロではないか。
こんなふうに比べて評価されたら、誰だって嫌になる。評価するならいいところだけでじゅうぶんだ。
実際には、文法上多少問題があっても、生き生きと感じられる魅力的な作文はいくらでもあるし、伝えたいことが最低限きちんと書けているシンプルな作文に悪い印象は持たない。そんなことは読めばわかる。
今書けることを書けばいい。何も考えていなければ、見えるものを書けばいい。作文のかたちに、ことばを当てはめるパズルのような訓練をするのもいい。
作文嫌いは思い込みである。作文は嫌いになるほどのものではないのである。
文字が書ければ、誰でもそれなりに楽しめる程度のものだということを知ってほしいと思う。
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