中山和弘氏が偽情報を見抜くポイントを「かちもない」としてまとめている。
- かは書いた人
- ちは違う情報と比較
- もは元ネタの有無
- なは何のため
- いはいつの情報
デマだらけで何を信じればいいのかわからない状態は確かにまずい。無責任なネット記事は何かとやり玉にあげられる。
しかし、正しく役立つ記事しか書いてはいけないなんてことになると、この家事ブログは廃業するしかない。
悪意と善意と無意識と
ことばはコワイ。
アフィリエイト記事では、商品を多少過剰に賞賛してしまうことがあると告白する。
もちろん、だまそうと思っているわけではない。とはいえ、商品を「いいな」と思ってもらえるように書いていることに違いない。
家事ブログでも商品リンクを貼っているが、アフィリエイトを目的に書いているわけではない。とはいうものの、興味があれば、よければここから買ってもらえると嬉しいという下心はある。
家事ブログの記事は「かちもない」で評価すると価値がない。ネタ元は個人情報で書けないことも少なくないし、いちいち真偽を確かめたり比較検討して書いてもいない。よくある個人の感想や意見の類に過ぎない。
それでも何を書いてもいいと思っているわけではない。誠実でありたいと心がけているし、書いたことには責任を持ちたいと思っている。
しかし、どこからが悪意でどこからが騙しでどこからがデマかというのは案外あいまいなものなのだ。
だからもめごとが絶えない。
ことばはコワい。
ビジネスといえば格好いいが、ネット情報の大半はお金儲けのための記事である。
宣伝や広告では、あえて欠点や不都合なことは言わないのが常識だ。言わなければ嘘をついたことにはならないが、隠蔽ととられる可能性がないとはいえない。大げさとか紛らわしいといった判断は主観的で、読者の感受性次第である。
悪意や善意に明確なラインはない。と言って「無意識だった」「違法性はない」などと逃げるのはずるい気もする。
ネット上に書くということは、そういうリスクを負うことなのだとつくづく思う。
事実とエビデンスと
事実だから書いてもいいということにはならない。もちろん事実しか書いてはいけないということもない。
この頃流行りのエビデンス、選ぶデータでいくらでも恣意的に操作できるという。そんな話を聞くと、グラフをふんだんに利用して、具体的な数値を示したわかりやすい記事は、かえって胡散臭いと思うことがある。数値に弱いことをいいことに、うっかりだまされてやしないかと妙に警戒してしまう。
かと言って、漠然とした抽象的な話ばかりではおもしろくないし物足りない。間違いないけど個性もない記事は、それはそれで信頼できない。その点おもしろいエピソードや具体的な事例は、嘘かほんとかわからなくても興味をひくから困る。
嘘をついて誘導したり騙したり、攻撃したり傷つけたり、惑わすつもりなんかなくても、結果的にそうなってしまう場合は避けられない。基本的には何を書いてもいい自由があるからだ。
ことばはコワい。
自分でも気づかないうちに、ちょっと格好つけたり盛ってみたり、恥ずかしい部分は隠して書くなんてことはよくあることである。
エッセーを書きながら「いい子ぶってるんじゃないか」と気になっていたという作家のしまおまほさんは、
「かっこ悪いこと、どうにもうまくいかないことを整えずに作品にできるとしたら」と小説を選んだ。
と述べている。(朝日新聞 著者に会いたいより)
ノンフィクション作家は、取材して見知った事実の大半は書けないという。ほんとのことを忠実に書きたい場合、案外創作のほうが正直に表現できるものなのかもしれない。
事実やエビデンスは、必ずしも信頼の証にはならない。
それじゃ何を書くか?
ブレイディみかこ氏は、
私がやりたいのは、主張でなく、現代社会の風景を描くこと
と述べている。
表現は自由だ。役に立とうが無価値だろうが書きたければ書いていい。
ときにろくでもないことを書かずにおれなくなることがあるかもしれないし、金儲けをたくらむこともあるだろう。自分を通して書く限り、客観的な記事などないのだ。
読者としては見る目を養い、書き手としては、つどつど誠実さを忘れないでいたい。
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