図書館で順番待ちしていた話題の本『ホモ・デウス』を読んでいる。
上巻のさわり、この本の全体像の説明のところで、はやくも空恐ろしく憂鬱になってしまった。
ホモ・サピエンスとはいったい何者か、人間至上主義はどのようにして支配的な世界宗教になったのか、人間至上主義の夢を実現しようとすれば、なぜその崩壊を引き起こす可能性が高いかを詳しく調べてみる必要がある。それが本書(ホモ・デウス)の基本的構想だ。
このように壮大な内容の本だというのに、わたしときたら、家計と向き合うときの、どうしようもない現状を目の当たりにする、あの何とも言えない不安感を思い出す。
人がたいてい変化を怖がるのは、未知のものを恐れるからだ。だが、歴史には一定不変の大原則が一つある。すなわち、万物はうつろう、ということだ。
先のことはわからない。それは幸か不幸か?
『無知は勤勉の結果』
無知というのは、たんなる知識の欠如ではありません。「知らずにいたい」というひたむきな努力の成果です。無知は怠惰の結果ではなく、勤勉の結果なのです。
あることを知らないというのは、ほとんどの場合、それを知りたくないからです。知らずに済ませるための努力を惜しまないからです。
と述べている人がいる。
なるほどわたしは、嫌なニュースや嫌な話は聞きたくないし知りたくない。そうして身を守っているつもりでいた。精神のバランスを崩して病んでしまうくらいなら、当然逃げるのもありだと思う。
しかし、ことによると、嫌でもしっかり向き合ったほうがいい場合もある気がしている。
この頃は、何でも「知らない」で済ませる傾向が流行っている。何かというと専門家に任せるのが賢明だという。それだけ見たくないし知りたくないことであふれてるってことなのかもしれない。
見たくない、知りたくない理由
見たくない、聞きたくない、知りたくないのはどういうものか考えてみた。
- 自分に関わる悪い評価や恥ずかしい評価
- 残虐でゾッとする救いのない話
- 理不尽で腹立たしいのにどうしようもない話
いろいろあるけど、ざっくり言うと、生きる希望が見いだせなくなるような不快な類のもの。といってもかなり個人差がありそう。
こうした希望を失いそうになるようなものごとを不快に感じて避けるのは、危険を回避するための大事な能力でもある。
ただし、これも行き過ぎると判断を誤り、かえって自滅するということもあり得る。ヒトには何かと行き過ぎるところがあるから気を付けたい。
興味本位にまかせて楽しいことだけ知ろうとすれば、自分の居場所がわからなくなって、知らない間に危険なところに行ってしまわないとも限らない。
だから、耳の痛い嫌な話や共感できない意見に触れるのも、自分の立ってるところを確かめる貴重な機会なのかもしれない。
いちいち嫌な気分になってる場合ではない。
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