「無駄な時間」とか「そんな暇があったら」なんてことをよく言う。限りある時間、いったい何に割くべきか。
時間は誰のために何のために
言葉の森の講師は、用事で仕事ができないとき、互いに助け合う仕組みになっている。
講師が休むときはもちろん、生徒の都合で時間が変更になるような場合も、そのとき引き受けられる講師が振替レッスンを行い、担当講師には負担がない。
働きやすいおかげでずいぶん長くお世話になっている。
その反面、生徒との交流が淡泊になり、なかなか親しみを感じてもらえないもどかしさもあった。でも、同じように限られた時間の中、じょうずに交流を深める講師の方もたくさんいるので、これはもう、わたしの能力不足である。そう思うと、何だか生徒に申し訳ない気もしている。
もう少しゆっくり接する時間があれば、などと思ったものだった。でも、声だけの電話だと間が持たない。Zoomで顔を合わせられるようになって、ずいぶんやりやすくなった。それでも10分の制約は、わたしには難しいと感じている。
働きやすさは言うことがない。しかし、わたしは生徒のサポートや見守りが10分ではじゅうぶん果たせないのが悩みだった。とはいえ言葉の森も採算が合わないレッスンはできない。1時間レッスンのクラスは、最低4人いないと採算が合わないと聞いている。
つまり講師は、時間内で生徒の信頼を得る能力がいるということだ。
とはいえ時間は、場所や人によって流れ方が違うもの。わたしのようにコミュニケーションに時間がかかる者にはつらい。
というわけで個人教室ではマイペース
こうした経験から、自分の教室では、10分間の説明や対話で通信を切らず、つなげたまま作文を書いてもらうようにした。書いてもらっているときは、ビデオや音声を切ってもらってもよいが、お互いにいつでも声がかけられるようにしている。
そうすると、生徒は時間内に作文にとりかかり、後回しにできない。その代わり、わたしは1レッスン40分から1時間ほど拘束される。と言っても、生徒が書いている間、わたしは何もすることがないので、ほかのことをすることができる。
その後、どれくらい書けたかを見せてもらい、音読や暗唱の発表や読書の紹介をしてもらう。合間にちょっとした雑談もできるので、生徒のようすがよくわかる。これが10分の電話ではできなかった。ただ「やってね」と言うことしかできず、ほとんどサポートできずにいたのだからふがいない。
子どもの場合、家庭のサポートも重要なポイントである。保護者との連携が大事になってくる。忙しい保護者と連携をとるには、小さな信頼を積み重ねていくしかない。そのためにわずかでも繰り返し顔を合わせることを心がけている。
結局はこうした手間をかけ合うことがいちばん、持っている力を発揮できるようになる近道だと思うのだ。
人は社会的な動物だから、ひとりでは生きられない。組織になると、個人では難しいことが効率よくできる。個人でできることは限られているし、効率が悪いことも多いからだ。しかし、組織は個人をおろそかにしないと、かえってコストがかかってしまう場合も少なくない。
だけど人の暮らしは、数字ではかれるものばかりではない。遠回りや失敗の経験が無駄とは限らないのだ。とくに対人交流に効率性はいらない。
時間は限られていて、いつもその使い方に悩む。バランスをとりながら、儲からなくてもつぶれない、人と向き合う教室がしたい。
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