令和の短歌ブームに乗っかって

SNSでも歌集でもない

短歌ブームだとか。わたしもこのところ短歌に凝っている。はやりものにまんまと乗っかってしまってるようで、なんかちょっと恥ずかしい。

SNSとの相性がいいと言われているが、それとは関係なく、何年かに一回、短歌・俳句や詩のブームが来るように思う。

直近のマイブームは俳句だったが、そのときはまだ夏井いつき先生はテレビに出演しておらず、わりとあっさりブームが去った。その後、夏井先生の「プレバト」を見て、あらためて俳句のおもしろさに衝撃を受けることになったのだが、詩心のなさを思い知るばかりで盛り上がらずじまい。

それなのに、なぜか短歌にビビッときた。

確かに百人一首は嫌いじゃなかったけれど、『サラダ記念日』が流行ったときは、さほど興味は持たなかった。あのときから始めていれば、今頃かなりベテランだったかもしれないのに、と思うと少し残念である。

この度のマイブームは、話題の人気歌人の歌集に魅せられたわけではない。もちろんSNSなど使いこなせていないのでまったく関係がない。きっかけは、なんとミステリー作家の北村薫なのだ。

この方、あきれるほど文芸に詳しく、その探求の経緯をミステリー小説にしてしまうちょっと珍しい作家でして、文学史には昔から興味があったこともあって、すっかりファンになってしまったのだ。

そのせいで、うっかり短歌に足を踏み入れてしまった。というのも北村薫氏の話の中には、どういうわけか短歌がよく登場する。というより北村薫氏は俳句、詩、随筆から落語まで、あらゆる文芸に通じていて、そのおもしろさを引き出すことにたけているのだ。

その中でわたしは短歌にひっかかってしまったというわけである。 

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短歌のほどほど加減が好き

短歌は俳句ほど研ぎ澄まされた洗練さがない。

季語がいらないせいもあって川柳的なものもある。どこで区切ればいいのかわからない、五七五七七の韻律をまるで無視したような作品もある。とにかく多様性に富んでいて自由なのがいい。

詠み方が自由ならば読み方も自由。深読み歓迎なところがおもしろい。字面どおりの直球読みをするのもまた楽しい。

つむじ風、ここにあります 菓子パンの袋がそっと教えてくれる

木下達也

という短歌について、『北村薫のうた合わせ百人一首』の解説で作家の三浦しをん氏は、

「うずまきパンの袋がそっと囁く」以外の読みなどまったく思い浮かばなかった。

北村薫のうた合わせ百人一首』三浦しをんの解説より

とあっておもしろい。北村薫氏自身、本文の対談の中で、

私はもう一途に、これは、パン屋の店先のうずまきパンの袋が囁く、としか思っていなくて。

北村薫のうた合わせ百人一首

と、ある。

つむじ風は「うずまきパン」の比喩だと理解したのだ。

わたしも今のように短歌に親しんでいなければ、<どこからか飛んできた菓子パンの袋が風に舞うようすを見て、そこにつむじ風があると気づいた>と読めたかどうか、自信がない。もちろん「うずまきパン」と読んだとしても、それは決して間違いではないのである。

短歌には「わかる人がいるんだろうか」と心配になるような解釈がむずかしい作品もたくさんある。限られた字数の中、オリジナルで華麗な跳躍を追求しているところがあるからだ。読み手は、その思いがけない取り合わせや比喩を推理することをおもしろがる。前提知識がなければさっぱりわからないといった知識自慢のような意地悪な作品も少なくない。そうかと思えば、これってただのつぶやきなんじゃないの? あまりに普通過ぎて、それが短歌だと気づかないようなのまである。じつに懐深く幅が広い世界なのだ。

短歌は、共感と個性ぎりぎりの線をねらう知的でスリリングな言葉遊びなのである。

「読む」自由

短歌にひかれた理由のひとつに、読みの自由さがある。

作文教室では、書くと同時に読む訓練をしている。書くには読むことが不可欠だと思っているからだ。

文章を読んで、簡単な〇×クイズをして遊ぶのだが、明確に〇か×になる問題を作るのは案外難しいものである。文を読んで、どんなふうに理解するかという答えは、一つとは限らない場合が少なくないからだ。「そう読めなくもないよね」といったあいまいな答え合わせになってしまうこともしばしば。

生徒たちの作文を読んでいても、わかりやすさとか正確さばかりチェックすることに疑問を感じることがある。正確な言葉遣いはもちろん大事だ。でも、ことばで表現できることにはそもそも限りがある。人間はことばで考えるものだから、どんなこともことばにできると考えがちだけれど、そうじゃない。そのことをもっと自覚したほうがいい気がしている。

先の三浦しをん氏のことばを再び引用して終わりたい。短歌は読む力を柔軟に鍛えてくれる。

そう、私が本書に興奮した一番の理由は、「読む」行為がいかに自由なものであるかを感じたからだ。

北村薫のうた合わせ百人一首』三浦しをんの解説より

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