一般的な小中学生は、学校で作文を書く機会がほとんどないという。
感想文も提出自由で書かなくてもいいらしい。
なのに受験や就活でいきなり作文を書かないといけなくなって、あわてて問い合わせてくるパターンが増えている。
子どもたちの親世代は、まだ学校で日記や感想文を書かされていたこともあって、上手でなくても、それなりにどうにか書けるのがあたりまえになっている。だから子どものあまりの書けなさに気づいたとき、びっくりするようなのだ。
そういえば中学生の投書で
ずいぶん前のこと、そういえば中学生がプログラミングや英語を教える前に、ちゃんと国語を教えてほしいといった投書を読んで感心したことがあった。中学生が言うには、プログラミングにしろ英語にせよ、もとになる日本語がきちんと使えなければモノにならないというのだ。
確かにそのとおり。でも、今の学校はあれこれ新しいことを教えるのに忙しい。
作文なんて、放っておいても書けると思っているふしがある。
わたしもとくにこれといって作文の書き方を習ったおぼえはない。だから誰でもそのうち書けるようになると思っている人の気持ちもわからないではない。ただ、以前は何かといえば書く機会があった。それが今はほんとに機会がないようなのだ。書いたことがなければ、これだけ書けないことになってしまうのか。ちょっと驚いている。
このSNS時代、作文くらいその気になれば誰でも書けそうなものである。でももし、その気にならなければどうだろう。書けなくなってもふしぎではないのかもしれない。
今は書ける子はいくらでも書けるし、書かない子はまったく書かない。まあ昔からそんなものだったけれど、もっとすごい格差ができてしまっているのかもしれない。
スポーツや音楽もできる子はとことんできるし、できない子はとことんできないというか、やらないと聞いたことがある。みな同じように訓練して学ぶ時代ではなくなってきているようだ。
手とり足とり作文教室
最近は、手とり足とり作文を書いてもらうことが増えた。以前は、言ったとおりに書いてもらうような練習は、小さな子や作文が苦手な子に限られていたのだが、今はあたりまえのように行っている。読書する子はそれなりに作文も書けるのがふつうだったのだが、今は読書はしても作文は書けないという子さえいる。書けないというか、とにかく書いたことがないから何をどう書けばいいのかわからないのだ。
とにかく作文を書くことに慣れてもらうところから始めている。
作文は運動や音楽と同じ自己表現のひとつ。好きにならないまでも嫌いになるわけがない。うまく書ければうれしいし楽しいはず。
教わらなくても、ただ書かされていた経験は、まんざら無駄ではなかったんだと今になって思い知っている。
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