プライバシーと自由な表現の境目

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ブログを書いたり教室でほかの人の作文を読んだりしていると、プライバシーと自由な表現の折り合いのつけどころでいつももやっとする。好きにすればいいと言われたらそれまでのことなんだけど、好きなところが自分でもよくわからないから困っている。

「わたし」をどこまで表現するか?

個人的な私生活にはそれぞれ個性がある。それぞれ独自のものがあったりするので、他者にとって、それは興味深くおもしろいものだ。互いに参考にしたり、人となりの理解に役立て、生活や人間関係を豊かにしている。個人情報をいっさい打ち明けずに暮らす方がむしろむずかしい。

だがこのご時世、いったい誰にどの程度自分をさらけ出せばよいか。などといちいち考える人は少ないだろうが、こんなふうにブログを書いていると、いつもそうした問題を突き付けられているような気がしている。

「有名人でもあるまいし。」などとどうか笑わないで。

今やごくふつうの無名な一般人であっても、その暮らしぶりや家族構成、居所や仕事といった個人情報はお宝という。誰にどう利用されるかわからないリスクを抱えているからだ。

でもこうした何気ない背景がその人のその人らしさを作っていたりする。とはいえ、いくらおもしろい素敵なエピソードがあっても、どこでも披露してよいということにはならない。登場人物の都合もある。

そんなわけで、自分をどこまで表現するかということについて、最近ますますむずかしいと感じている。

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「あるある」と「何それ」のせめぎあい

わたしはちょっと駄目人間にありがちな「あるある」とか、猫の「あるある」が大好き。

猫というのは、どんなに上等そうできれいなのもちょっと薄汚れた野良猫も、みなだいたい同じようなことをするからおかしい。

人間も似たり寄ったりで、仕事ができない人の共通点とか、忙しい主婦にありがちなこととか、嫌になるほど思い当たる節があって笑ってしまう。「わたしだけじゃないんだなあ」という安心感か、それとも「ひとりじゃない」という連帯感が持てるからか。

ところで、最近始めた短歌やさらに短い俳句の世界では、誰もが広く使っているオノマトペやことわざは手垢のついた表現といわれて嫌われる。誰も思いつかなかったたとえや取り合わせでアッと言わせようとたくらむ世界なのだ。わたしのような素人には、正直何を言ってるのかわからないのもあって、岡本太郎の「なんじゃこりゃ」みたいでアートっぽい。これはこれでおもしろい。

芭蕉は「言いおおせて何かある」という名言を残しているけれど、所詮ヒトも自然もこの世界のことも、ことばでは完全に言い表すことはできない。互いに共感しあえることばを使いながら、ときに「何それ?」と斬新なことばを発明しつつ、交換交流し合って生きているんだなあと思う。

何を書いても「わたし」

作文を書いても、短歌を作っても、絵は描きませんがおそらく絵を描いても、そこにはきっと自分が表れる。この身を使って考えている限りは。

どんなにほかの偉大な人の真似をしようと思っても、その通りにはならなくて、どんなに隠そうと頑張っても、きっと我が出てきてしまうのだ。

だから死ぬまで、何を書いて何を書かないようにするか、悩み続けるんだと思う。

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