作文教室というと、子どもたちが作文を教えてもらうところのように思うかもしれないが、実際に書くのは生徒たちで、わたしもとくに教えない。
わたしがしているのは、書くきっかけづくりだろうか。そのうち勝手にそれぞれおもしろい作文を書くようになるからふしぎである。そういう力がちゃんと備わっているんだなぁと思う。
そんな子どもを見ていると、おとなも作文したほうがいいよね、とつくづく思う。
おとなも作文しませんか?
おとなが作文を習うなんて、ちょっとない。
ビジネス向けの文章講座やエッセイ講座みたいなのはたまに見かけるが、なんだか塾っぽい。セールストーク的なモノを売るための文章やメールの書き方講座も人気である。習ったとおりに書いたら、みんな同じ文章になりそうだが、セールスには売れるパターンというのが決まっているらしく、案外個性はいらないようだ。
就活に欠かせないプロフィールの書き方は作文力が問われる。魅力的なエピソードが用意できれば下手な文でも問題ない場合もありそうだが相手によって書き分けられる器用さが必要かもしれない。実績を書き過ぎると嫌味に取られることもあるというからむずかしい。ほかにも謝罪文やお礼状の書き方など、あわてて調べた経験がある人もいるのではないだろうか。
こうした実務的な作文ばかり書いていると、作文がほんと嫌いになりそうだ。
ほかにことばの習い事といえば俳句や小説がある。作文は俳句や小説と比べたらはるかに敷居が低い。が、わざわざやってみたくなるような魅力もない。第一習わなくても書こうと思えば書ける。
おとなはとくに仕事の役に立つとか、健康にいいとか、さらにはよほど楽しいとか、おもしろい要素がなければ、時間やお金を割いてまで習おうとは思わないのがふつうだ。
作文はどう考えても地味で、そうした魅力に欠ける点、つくづく残念である。
ところが先日、新聞に投稿して掲載されるのを楽しみにしている老婦人の記事を見つけた。掲載された投稿記事のスクラップノートが数冊にもなるというではないか。こういう楽しみ方をしている人もいるのだと感心した。
わたしの20代の子どもは、新聞を隅から隅までよく読んでいて、中でも多種多様な人の文が載っている投書欄がおもしろいという。わたしもそれを聞いて以来、投書欄を目にするようになったのだが、なるほどここではさまざまな年齢の方の意見文が読める。
こうした投書欄のほかにも、小さなコラムとして投稿記事が掲載されていることが少なくないことにあらためて気づいた。
こんなところでおとなもちゃんと作文を楽しんでいるではないか、とちょっと嬉しくなった。そういえばツイッターもいちおう作文だ。画像が主流になってきているが、作文も嫌われてるわけではなさそうだ。
おとなになると、日々追われ、あらたまって作文する機会がないまま過ぎる。きょうという日が更新し続ける中で、忘れ去られていくエピソードの数々を、考えや思いを、もし書き残していたら、それはちょっとした財産になる。自分や誰かを勇気づけたり励ましたりするかもしれない。思い直したり、元気になるかもしれない。何かアイデアが浮かぶかもしれない。
子どもは、身近なおとなの話や行動に大きな影響を受け、作文の内容を豊かに充実させていく。それを目の当たりにしていると、おとなも作文したほうがいいとつくづく思う。
おとなになった今だから書ける生活作文を書き続けてはじめて、あらゆる実用的な文章に活かせるようになると思うからだ。
でも、日記を書こうと思っても、続かないのが悩みという人が多いように、何より難しいのは書き続けること。作文が楽しく続けられるようにするために、読書作文教室がある。
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