古いおうちでごちゃごちゃモノを持つ生活をしていると、何もない部屋ですっきり暮らしているミニマリストたちが心底うらやましいし、憧れます。
はじめはモデルルームのようなきれいな部屋での暮らしが単純におしゃれで素敵に思えました。
豪邸で豪華なモノに囲まれる暮らしはとても真似できないけれど、持たない暮らしならわたしにもできるのではないか、という浅はかな期待もあったと思います。
ところが、やってみて初めてわかりました。
持たない暮らしは、それなりに不便です。それは物理的にモノがない不便さだけではありません。
毎日の暮らしが「持つ」「持たない」という選択の連続で、息が詰まってくるんです。「とりあえず持つ」とか、「ちょっと置いておく」といった生活に慣れ親しんできたわたしにとって、「使わないモノは一切持たない」という合理的な暮らしは、想像以上に厳しいものだったんですね。
それでも「持たない」暮らしをめざす理由は自由と自立
思っていた以上に「持たない」暮らしにはしんどい面があるということを知りました。
それでもわたしは「持たない」暮らしにシフトせざるを得ないこともわかってきたんです。
年をとっても自立した自由な生活を送るには、なるだけ家事をラクにシンプルにしていく必要があるからです。モノが少ないと、掃除がラクですし、モノを管理する手間が減ります。防災や避難の面からもモノは少ないほうが都合がいい。
これからは徐々に広げた風呂敷をたたむように、暮らしを身の丈に合ったものに片づけていかないと、結局やっぱりもっとしんどいことになりそうだということに気づいたわけです。
「選択の決断」はできる間にどんどんしたい
モノを「捨てる」「捨てない」「持つ」「持たない」の決断に限らず、生きるということは、日々選択の繰り返しなんですよね。
日々の選択ができなくなるということは、自立した生活が送れない状態になるということです。これから先、残念ながらそういう事態にいつ陥らないとも限りません。
そうなるまでは、自分ひとりでも何とか暮らしが成り立つようにしていかねばと思うわけです。サポートをお願いするにも限界がありますからね。
考えてみれば、身の回りのことを自分であれこれ決められることは、実に幸せなことです。それを「しんどい」だなんて言うのは贅沢というもの。失ってはじめて気づくのではあまりに哀し過ぎます。
「したい暮らし」と現実的に「できる暮らし」の間で折り合いをつけながら、必要なモノを選び、手に負えないモノは徐々に手離す段取りをするのは今だと思っています。
とくにモノを手離す処分については、からだが動く元気な間でないとできません。もうすでに、わたし自身おっくうになって投げ出したくなるぐらいですから、残された家族にしてみれば、迷惑以外の何ものでもない。
「めんどうだなぁ」と嫌になりながら、自分で自分の片づけができる幸せをふと思い出すたび感謝し、いつ終わるか知れない片づけをしています。
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