アラフィフからの自立のしたく

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アラフィフは、身の回りを片づけたくなる年頃なのかもしれません。

思えば片づけじょうずでもないくせに、節目節目に模様替えをしたりして、心機一転するのが好きでした。

今度のは老いる準備でもしているつもりなんでしょうか。「小ぢんまり」がテーマなんですよね。

 

はじめての自立のときが来る。

こんないい年をして、わたしは自立できていないことがものすごいコンプレックスなんです。

ほとんど社会人生活をしたことがないまま、家族の支えを得てどうにか生きてこれました。

  • 体力がなかったからなのか、
  • 我慢が足りなかったからなのか、
  • 甘かったからなのか、
  • できなかったからなのか、
  • やる気がなかったからなのか、

自分でも、どうしてもう少しがんばれなかったのか、と思うのですが、逃げ足だけはとにかく速かった……。

同世代のかたがたの、15年OLをしてがんばったとか、パートから正社員になったとか、そんなエピソードを聞くと、まぶし過ぎて、がんばらなかった自分の人生を恥ずかしく思うばかり。

そう思う一方で、何をどうがんばれば良かったのか、わからないんです。それなりにがんばっているつもりもあったんですね。でも、なんかずっと迷ってる感じでした。

お金を稼ぐことだけが自立じゃない! なんてキレイゴトを思ってみても、わたしの中の自立といえば、経済的自立以外の何ものでもないんですね。そのくせ、じゃあ、稼ぐために何でもできるか? と言われたら、できない理由ばかりあげては逃げてきたんですね。

おかげで、死ぬほどしんどいことや、つらいめには合わずにすんできました。だから、いよいよ免疫がなく、弱いのかもしれません。

働けない深刻な事情を抱えている人から見ると、腹立たしいですよね。生活のため、懸命に働いている人からは、ほんと嫌われますね。

このように、いろんな意味で、わたしには自立する能力に欠けているんです。家族に「働け!」と言われて行き詰ってひきこもっている若者もこんな感じなんでしょうか。

ずっと支えてくれているオットも年をとり、いずれは働けなくなります。こんどはわたしが支える番が来るかもしれません。順番どおりにいけば、やがて、ひとりとり残されてしまう日も確実に近づいています。ムスコは、いずれどこかに行ってしまうでしょう。はばたこうとするとき、足かせになりたくありません。

いよいよわたしも自立しないといけないんです。

小ぢんまりすれば、自分ひとりぐらい何とかなるかも。

自立に向けて、こんなわたしでも管理できるぐらいの小ぢんまりした暮らしにすることから始めてみようと思ったわけです。

もう「できないこと」を数え上げて、めげていても仕方ないですし、そんな時間もありません。

今自分にできることは、これまでのように、すぐ投げ出さないで、ゆるゆるでもいいから続けるように心がけています。もったいないです。この年になると、できることがあるのは、ありがたいことですからね。

ところで、この頃、とかく「あきらめない」が美しいことのように言われているのが解せません。生きていると、あきらめなければいけないことは、たくさんあります。それに「あきらめる」のは、悪いことばかりではありません。「あきらめない」は、間違うとストーカーですからね。

「くさらない」とか「ヤケにならない」「投げ出さない」とかのほうが大事って思います。

ほぼ日手帳の日々の言葉にこんなのがありました。

やっぱり、自立するっていうことは「全部一人でやっていく」ことと同義ではなくて、人の意見をちゃんと聞いたり、時には人の手を借りたりすることも大切になってきますからね。

永田純さんが『どんべいさんと…』の中で

社会となんとか折り合いをつけながら、持っているものと、できることを尽くして、暮らしていけたらいいな。

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