「中途半端」を嘆き「極端」に憧れる危ういバランス感覚

balance

栄養・運動・仕事、いろんな分野でとかくバランスの良さが問われている。

にも関わらず、バランスをとろうと苦心することは、ほとんどの場合報われない。

苦労してあれこれがんばった挙句、中途半端とか八方美人、優柔不断に器用貧乏、などと揶揄されるのがオチだったりする。

それなら何かしらわかりやすく極めて、人から評価されたいと思っても不思議じゃない。

最近あらゆる分野で、やたらと専門家やスペシャリストが増殖している理由はそのせいかもしれない。

かつては気持ち悪いと嫌われていた「オタク」も、今や極端に限られたジャンルの知識人。

何でもそつなくこなすより、極端なことでもして何でもいいから個性を出そうというのが今の流行みたい。

けなげにバランスをとろうと奮闘することが評価される時代は来るのか。

『人間社会は同じ状態にあり続けることができない。』

50年以上生きていると、ほんとにこの世の中、同じ状態を維持できたためしがないとわかる。

これは構造主義で有名な民俗学者であるレヴィ・ストロースが述べたことらしい。『寝ながら学べる構造主義』で知った。

洋服の流行を見ると、変化し続けているのがよくわかる。

人の考えも同じように変化している。

少し前まで平気で許されていたことが今は非常識なんてことは珍しくない。

ということは、今あたりまえに思っていることも、いつ何時否定されるようになるかわかったものではない。今縛られている常識もまた、その程度のもの。

そう思うと、今極端にもてはやされている最新流行のものほど危うく見えてきた。

この先いくつ残るやら。

チキンラーメンとカップヌードルの偉大さを実感する昨今。

大事なものはごくわずかしかなくて、地味で変わり映えしないところに隠れているのかもしれない。

バランス感覚とは中途半端を忍耐すること。

決断や行動は早いほど優れていると思いやすい。

でも世の中そう簡単に割り切れることばかりでない。

優柔不断に耐える力こそ成熟の証という説もある。

スピードが求められることもあれば、時間をかけて折り合うことが重要なときもある。

ものごとはいつもすっきりとは片づかないし、もやもやしたまま過ごさないといけないことが少なくない。

そうした中途半端な状態の中にあって、くさらず、冷静に、よりよい方法を模索することができることをバランス感覚に優れているというのではないかと思う。

「善悪」や「損得」を決めてしまったら簡単だしわかりやすい。

でも「じゃあどうすればいいか」というめんどくさくてむずかしい具体的で現実的な問いの中でしかバランスはとれない。

あー、誰か教えてぇ!

と、ついわかりやすいハウツー本に手を出して、専門家の話を鵜呑みにする。やっぱり答えは見つからない。

わたしが子どものときは、公園にシーソーがあったっけ。好きだったなぁ。

もういい加減いい年なんだから、極端に走らない、中途半端に耐える、バランス感覚が身についた成熟したおとなになりたい。

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