初詣でかならずおみくじを引くようになったのは、じつはここ数年のこと。
おとなになってからというもの、占いやくじびきといったものにはまったく興味が持てなくなっていた。ところが、おみくじを持ち帰って日記に貼り付けるようになって以来、どういうわけかおもしろくなった。
「親ガチャ」ショック
「親ガチャ」ということばを知ったときは、何というか、言葉にならない衝撃だった。
新しい言葉は、たいていおもしろがれるほうなのだが、これには胸を突かれた。「親ガチャの負け組」などと子どもに思われる親の心境になってしまうせいかもしれない。
ずいぶん長いこと、わたしはこれでも他人に迷惑をかけまいと努める自己責任論者だった。いつの頃からか、世の中努力だけではどうにもならないことがあるなぁ、などと思い始めた。「こんなはずではなかった」と、負けが込んできたせいかもしれない。
「そんなわけなかろう」と今ならわかる。それが当時はどうしてだかわからなかった。給与も株も不動産も、上がり続けるもんだと思って疑わなかったんだから馬鹿みたい。
自己責任論者でいるには、勝ち続けるか、負けを認めるわけにはいかない。勝者の快感を求めて、ときどきへんぴなところでいいから「井の中の蛙」みたいに踏ん張りたくなることもある。
「親ガチャ」のような言葉が生まれる背景には、どんな努力もむなしくなるくらい、明るい未来を見い出せない厳しい現実が透けて見える気がして、暗い気持ちになる。
努力も運命も
わたしは努力も運命も、そこそこ信じるのがいいと思っている。
「これも運命」と割り切った方が楽だと思うこともある。たとえばどこに生まれるかは選べない。これについてはもう運命だと考えていい気がする。
その一方、頑張ればどうにかできると信じることが希望になることも少なくない。たまたま不運に遭遇したとき、そこで「終わった」と思うか、どうにかできないかと考えるかどうかは自由。あきらめないで助けを呼ぶというのも立派な方法だ。わずかな余地に残された自由を使ってできることを探すのが努力というのかもしれない。
極端に偏ってわざわざ苦しむことはない。
幸運は準備されたところに訪れる?
膨大な聖書の言葉をくじで選んだ日々の聖句というのがある。くじびきなんぞで聖句を選ぶことに驚いた覚えがある。でも、大昔から案外、大事なことほど占いやらくじびきで決めてきたという話を聞く。たまたま占いやくじに出たことこそ神のお告げ、すなわち運命と受け入れてきたのだ。非科学的だと笑って見過ごせるだろうか。
占いやくじびきは信用できないから避けていたと思っていたのだが、何だか自信がなくなってきた。思いもよらないお告げを知るのがただただコワくて見たくなかっただけなのかもしれない。
実際人生は偶然だらけだ。とはいえ「これ」だ「こっち」だと、案外自ら選んでいることも少なくない気がしないでもない。とはいえ選択肢がしょぼ過ぎて、不本意なものを選ばざるを得ないこともあるし、めんどくさくなってあてずっぽうに選ぶこともしょっちゅうだ。そんなこんなを含めてやっぱり運命なのか。
それでもわたしは「幸運は準備した者のところに訪れる」というのを信じたい。そのほうが素敵だし楽しいではないか。だからうっかりチャンスを見過ごさないように、せいぜい努めたいと思う。
2022年がよい年でありますように。
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