コロナの影響もあって、ひとりでできる趣味があるのはいいものだとつくづく思う。趣味というのは、自分を表現する場みたいなもので楽しければいい。相手も目標も理由もいらないと気づいた。
寂しさを持て余さないために
ひとりでは生きられないけど、人とうまくやっていくのは簡単じゃない。
自分と他人との折り合いをつけるために、こっそりでいい。思いのままに楽しんでできる自分らしい表現の場があるといい。というか、無意識にそういうものを誰しも持っているのではないかしら。
せっかく立派なおうちを持っているのに、どういうわけかゴミ屋敷にしてしまう人、管理不能な数の動物を飼ったり、迷惑な餌やりをする人、近所に嫌がらせをする人、虐待やいじめをする人、そういうトラブルメーカーの話を見聞きするたびに、特別変わった人がそんなふうになるわけじゃなくて、不幸にも同じような境遇になってしまったら、誰しもそういう困ったことをしてしまう可能性があるように思えてならない。
よく言われるのが孤独で寂しい人である。
「ひとりじゃないよ」と寄り添ってくれる人が周囲にいるとは限らない。信頼する親しい人を突然失って、心のバランスを崩してしまうなんてこともあるだろうし、病気で孤独になることもあり得る。誰がいつ孤独で寂しい人になってもおかしくないのだ。
とはいえ厳しいことを言えば、孤独でない人はいないとも言える。人間生まれるもひとり、死ぬもひとりである。
不幸な境遇になった人がみなトラブルメーカーになるわけではない。大半は孤独を抱えながらも困ったちゃんになることなく生きている。きっと人間は、基本的には寂しさを持て余さないバランス力を持っているのだ。
ただ不幸にも、孤独で寂しい気持ちをどうすることもできなくなってしまうことが無いとは言えない。そうしたとき、人はトラブルメーカーにならざるを得なくなることもあるのだろう。
でも忘れずにいたい。人は孤独の寂しさをおもしろがって味わえるしたたかさも持ち合わせている。
趣味らしい趣味なんてないというけれど
ひとりでできる趣味は、孤独の寂しさを紛らわせてくれるものではないか。
とはいえ趣味を問われると、趣味らしい趣味なんてないとわたしも言いそうである。
マニアとかおたくのイメージが強いせいか、長く続けているわけでもなく、とくに熱心でもないようなことは、なかなか趣味とは言いにくい。
しかし、趣味がマイペースでできる表現の場だとすれば、趣味がない人の方が少ないかもしれない。
表現するのに相手がいないと楽しめないというのは思い過ごしである。ひとりでできる趣味はマイペースで気兼ねがない。そもそも表現はアウトプットすることであって、相手はいてもいなくても関係ない。目的もあってもいいが、なくてもかまわない。まして理由なんていらない。やりたいからやる!(バカボンのパパ風に)それでいいのだ。
からだを動かすダンスや運動もひとりでできるし、楽器もひとりでできるものはいくらでもある。わたしは残念ながら絵が描けないのでもっぱら書くことが趣味である。
ひとりでできる趣味は一方的なアウトプットの場
社会生活をしていると、プライベートのひとり時間はどんどん後回しになって、なかなか思うように充実させられなくなる。まわりに人がいるにもかかわらず、孤独を感じてつらくなるのは、周囲との関係より、もしかしたら自身のバランスを失いかけているのかもしれない。
母に毎日のように電話をかけてきては一方的に自分の話をするという元ママ友の話を聞いて思い出した。子どもの発達障害や不登校で行き詰まったとき、スクールカウンセラーの先生に、ただただ話を聞いてもらって落ち着いた経験がある。今思えば、ほんとに一方的なアウトプットだった。
そんなふうに表現する場があれば、人は自らバランスを立て直し、また生き直すことができるようになるのかもしれない。ひとりの趣味とは、おそらくそういうものだ。
孤独の寂しさも豊かな味わいに変え得る。
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