この年になってはじめて、友だちがいる人がうらやましいと思う。
「地域に数十人の仲間がいる」と何気なく話していた藤竜也さん、かっこよかった。
わたしには仲間と呼べる人もいないし、すぐ会える友だちもいない。
どうしてこんなふうになってしまったのか。
孤独死の何が問題か
孤独死が社会問題になっているけれど、これは亡くなった人が気の毒という話ではない。
早く誰かに気づいてもらえたら助かる命だったかもしれないし、必要以上に苦しまずに済んだかもしれない、というような意味では、気の毒だったということもあるけれど、人間いつかは死ぬ。
孤独死で厄介なのは後始末ではないかと思う。
亡くなっていることに誰も気づかないまま長期間放置された孤独死の後始末は、想像を絶すると聞く。死者を哀しんだり悼んだりするどころではない。壁や床を取り替えて、数日消毒しても、なおにおいが取れないこともあるという。
死んだらすぐに見つけてもらえるようにしておくのが世のため人のためだとつくづく思う。
誰もがいつ、一人きりになってもおかしくない時代である。
ひとりが気楽と粋がってばかりいられない。
誰にも迷惑かけない暮らしは妄想
人に迷惑をかけないことが真っ当な生き方だと習った気がする。
年をとって、子や孫に迷惑をかけたくない、という話もよく聞く。
わたしは、たまたま老いた親とは遠く離れて暮らしていて、何も手伝うことができないまま過ごしているけれど、実際に顔を合わせれば、負担に思うこともあるだろうことは想像できる。
わたし自身、子どもに負担をかけたくないと思う。
よそ様になら、負担をかけていいのか、と問われると困るのだけれど。
人に迷惑をかけない暮らしなどありえないのだと思う。
それでもお金があれば、何とかなると思っていた時期もあった。お金はもちろんないよりあったほうがいい。だけど助けてくれる人がたくさんいるほうがなおいいと思う。
そのためには、めんどくさくても人とかかわり、日ごろから自分にできる人助けをして、ちょっとしたもめごとやトラブルなんかもへっちゃらになって、したたかに、でも楽しく暮らせる能力を身につけておくべきだった。
でも、どうすればよかったのか、さっぱりわからない。
趣味が合わないとか、意見が違うとか、そんなことで避けていたら、誰ともかかわれない。
人見知りで引っ込み思案を言い訳に、ほんとは友だちがほしくなかったのかもしれない。
そもそも対等な友だちづきあいというのがうまくイメージできない。
何かというと、損得勘定とか上下関係が働いて、いい関係ってどういうのかわからない。
そんなことを考えていたら、親しくなる前に疎遠になってた。
めんどくさいことを避けてきた報いか、嫌われる勇気がなかったせいか。
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