今わたしに物語ブームが来ている。
誰の現実の中にも物語があって、それが救いになって、生きる支えになることもある。
人間ならではの素晴らしい働きじゃないですか。
小川洋子『物語の役割』
『ファーブル昆虫記』では、自分は広大な全体の、ほんの小さな一部だという思い。ところが『トムは真夜中の庭で』では、自分は他の何ものでもない特別な一人だという思い。そういう一見矛盾しているようでありながら、どちらも人間にとって必要な、共存させるべき思いを、私は本から学びました。自分を尊重しつつ、自己がすべてではなく身を任せるに足りる全体の一部だと感じることで、安堵を得られる。他人を許したり、不運を受け入れたり、偶然に意味を見い出したりできる。私は読書を通して、一つの関所を幸福に通り抜けたと感じています。
小川洋子『物語の役割』より
これを読んだとき、自分の小中学校の頃を思い出して愕然とした。
わたしも読書は好きなほうで、それなりに楽しんできたつもりだったけれど、今では思い出せないものがほとんどで、これほどの感化を受けた覚えがない。
わたしは読んでるつもりだったけど、ほんとは読んでいなかったのかも。
『アンネの日記』を読んだときの衝撃は、これまで思い出すこともなかったし、今ではもう思い出せない。どちらかと言えば、知りたくなかった嫌な話として、封印してたような気さえしている。マイナス思考を助長してしまいそうなものは、無意識に避けてた気がする。
悲惨な事実を受け止め、ことあるごとに『アンネの日記』の素晴らしさを語り伝えている小川洋子氏とはずいぶんな差である。
自分の存在の小ささを思い知ることは度々あったものの、「身を任せるに足りる全体の一部」とは感じられないし、「自己がすべてではない」と頭でわかっていても、安堵感は得られないままである。
嫌なものは見ない、聞かない、知りたくない、といった姿勢で来たおかげで、哀しみの中にある強さも美しさも喜びも知らないまま、浅はかな明るさで満足してきた。
現実はそれほど単純でもないし、きれいでないことも何となく知っている。
だからこそ、昔から嫌な話を見聞きするだけで憂鬱になる性質だったわたしの身を守る唯一の方法が、現実を見ないようにすることだったのだ。
まさか物語に逃げるなんて思いつかなかったし、それがどういうことで救いになって、何で現実と向き合う力になるのか。よくわからないけど、そのうちだんだん、懸命に見ないようにして逃げ回るより、物語に逃げ込んだほうが簡単じゃないか、と思うようになった。
現実を目の当たりにして心細くなったある日、河合隼雄氏の「誰にでも物語が必要」と述べていたことばをふと思い出したのが今の物語ブームのきっかけである。
物語は、現実の身近な生活の中にあって、見い出されるのを待っているという。
自分たちの社会が「大きな物語」に回収されないためにも
ぼくら庶民が「ちいさいけれど、それぞれに、ゆたかな物語」を、
語り続ける必要がある
(2024/11/22 20:06:02時点 Amazon調べ-詳細)
スポンサーリンク