日曜日の朝日新聞に内閣府調査の「ひきこもり」定義が掲載されていた。
8種類の外出状態があげられていて、その状態が半年以上続いている人のことをいうらしい。
つまり「ひきこもり」とは、仕事などの社会参加を避け、家にいる状態が半年以上続いている人のこととされている。
「ひきこもり」に外出頻度は関係ない
何となく「ひきこもり」ということばを使っているけど、けっこうイメージにばらつきがあって、意外とあいまいだったりする。
わたしは、社会学准教授、関水徹平氏の
「働いていない自分には価値がない」などと自分を責め続け、死を考えるほど思い詰める当事者たちの自己否定感に注目するべき
という意見に共感する。
外出頻度や人づきあいの程度はかなり個人差があるもの。
無口な人の中には、家族とほとんど口をきかない人だっていそうだし、外出しないでただうちにこもるのが好きな人もいます。
だからと言って、その人たちがいわゆる「ひきこもり」とは限らない。
みんなと同じように外出して、みんなと同じように働いて、みんなと同じように人づきあいしないと、何か変に思われて、何となく居場所がなくなる。そんな世の中に行き詰まったとき、人はひきこもり状態になってしまうのかも。
精神科医の斎藤環氏は、真っ当な人が追い詰められている状態がひきこもりであると述べている。誰がいつなってもおかしくないのがひきこもりなんだと思う。
家族ごとひきこもりになることも
わたしも子どもが不登校になって、発達障害と診断される前後の数年間、親子でひきこもり状態だったと思う。
オットは働いていましたが、家族以外の人に悩みを打ち明けることはありませんでした。
わたしたち家族には、家庭内のことを打ち明けられるほど親しい人がいなかったんですね。
親しい人がいたとしても、かえって言えなかったかもしれません。
うちはたまたま相談できる人とめぐり会えましたが、自分から悩みを打ち明けるなんて、そう簡単にできることじゃないことはよくわかる。
ただでさえ弱ってるのに、世の中の偏見や劣等感と向き合ってたたかうなんてとてもできなかった。
ことが深刻であればあるほど、どうすればいいのかわからないまま、ただ時が過ぎてしまうような感じでした。
だからと言って、周囲が困っている人に気づいて、適切に手を差し伸べるなんてことを期待するのも無理がある。
安心してひきこもっていられる時間と環境が持てて、その気になったとき、助けを求められるところがあって、ちょうどいい手助けを受けたり、気軽に手助けしたりできるというのが理想なんだけど、どうすればそんなふうにできるのか……。
「関係ない」ことなんてない
生きていると、いろんな苦難があります。
でも、自分は今のところだいじょうぶだし、たぶんこれからも何も起こらない。
自分の身は自分で守る。
だから「関係ない」ことは知らない。
順調なときほど、そんなふうに考えてたように思う。
でも、誰でもいつかは年をとって衰えていくものだし、死ぬまで病気にならない人なんていない。
阪神大震災で被災したときには、自分の努力だけではどうにもならない現実も思い知りました。
年々、そんなふうに自分の限界を知るにつけ、ようやくわかったんです。
世の中に「関係ない」ことなんて何もないなって。
今回たまたま自分じゃなかっただけなんだって。
もっとお互い気軽に負担なく助け合える世の中だったらいいな。
自分の身は自分で守る責任感を持つのは立派です。
だけど、わたしはせめて「関係ない」と言わない人になりたいと思う。
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