短歌を詠めば

まだ夏井いつき先生がいなかった頃、作文の上達のため、俳句を始めようと思ったことがあったが、まもなく挫折。歳時記だけが今も手元に残っている。ひょんなことから最近凝りもせず、こんどは短歌を始めてみることにした。

短歌はかなり自由な感じ

まあ俳句と似たようなものだと思っていたのだけど、似ているようで似ていない。五・七・五・七・七だから俳句より十四字もたくさん使える。しかも季語がいらない。夏井先生がよく言っているように、ありきたりな凡人的表現や説明的な表現を嫌うところなど、俳句とよく似ているところはあるものの、かなり自由な感じなのだ。

たとえば短歌の場合「何を言っているのかわけがわからない」というのもアリなような風潮を感じる。もちろんうるさい方々もおられるようだが、むしろ斬新さが重宝される傾向がある気がする。かの有名な宮沢賢治の短歌などは、いまだ謎だらけと言われているほどよくわからないものが多いらしい。考えてみれば昔から詩も芸術も、よくわからないものが少なくなかった。そもそも説明してはいけないんだからそれでいいのである。

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短歌を詠めば誰でも歌人

短歌を詠めば、誰でも歌人を名乗っていいみたいである。歌集の多くは自主出版だからすぐ絶版になるそうだ。入手困難なまぼろしの歌集がたくさんあるという。歌人たちが集って精進する同好会みたいな結社という団体もたくさんあってびっくりした。誰でも出入り自由みたい。

知名度も売り上げもない歌人の短歌など評価できないと思いがちだがそれは大間違い。無名でも、好きになる短歌はいくらでもある。音楽や絵と同じ。

短歌は案外暮らしに根付いている。生涯に一つくらい詠んだことがある人は少なくないのではないか。いまだ新聞をはじめ、誰でも投稿できる場所がいくつもあるし、幅広い年齢層の歌人が無数にいる。ただおそらく商業化されていないから目立たないだけだ。この強烈な資本社会に呑み込まれることなく存在し続けている世界があろうとは。何だか愉快。

短歌の鑑賞

以前、テレビで投稿された短歌を先生が原型をとどめないほどに添削していたのを見た。俳句や短歌は先生に添削されると上達するのだろうか。確かに文法的に間違っているところがあれば教わりたいし、こうしたほうがいいという手本を知りたい気持ちもある。でも結局は読み書きしながら身につけていくのがおもしろいのではないかと思ってしまう。だから楽しく続けることが大事。

短歌を互いに鑑賞し合うのは素敵な文化だ。読み手が勝手に妄想した解釈を述べ合うなんておもしろいと思う。もちろん批評するのも自由。先生的な指導をしてしまうのはちょっとダサい。決してほめ合えばいいというものでもない。

勝手に鑑賞するだけならいいけれど、どんなふうに味わったかを発表するとなるとたいへん。感じて味わった感覚をことばで表すのだから作文力が必要。そのせいか歌人はふつうの文も上手な人が多い。ということは、やっぱり短歌を詠めば、きっと作文が上達するはず。そう確信したのだった。

とりあえずNHK短歌で勉強中。

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