インプットとアウトプットの塩梅

yomikaki

読むインプットと書くアウトプット

ブログを書いたり、作文教室で話したりするアウトプットには、その中身を確認したり充実させたり整理するためのインプットが必要だ。ふだんはそれほど意識しなくても過ごせるが、書く作業には、とくにインプットが豊富な方が有利な気がする。

どっちが先かわからないけれど、どちらか一方だけだと苦しくなってくるのではないかと思う。

一方的に話したくなるとき

先日、テレビで10分300円で愚痴を聞く副業が紹介されていた。なかには一時間話し続ける人もいるそうだ。放送では、若い女性が旦那の愚痴をまくしたてていた。

母は高齢者施設で暮らす友人から週に二三回電話がかかってきて、毎回同じような昔話を一時間以上聞かされると言っていた。そういう母も、同居の家族とは会話がほとんどないので、たばこ屋に来るなじみのお客さんに話しかけるようになったという。若い頃には思いもしなかったと笑う。近所の人とコープで集うのもみな楽しみにしていて、数時間も前から待っている人もいるらしい。

先日、孫のmimiが母に用事で電話をしたとき、母は出先で買い物中だったにもかかわらず、立ち止まって一方的に話すだけ話して切ってしまったそうで、後から言い訳のようなメールが届いた。

高齢者はだれかれかまわず話したくなるのだという。

身近な人の話ほどゆっくり聞かないものである。それが高齢者であればなおさらかもしれない。同じ話ばかりだったり、要領を得ないことが少なくないからだ。それが何となくわかっている高齢者は黙るようになって、どこかよその関係ないところで一方的に話したくなるのかもしれない。そうしてアウトプットできる人はまだいい。

黙ったままアウトプットする場を失ったとき、たまらなく寂しくなるのかもしれない。

インプットとアウトプットでつながっている

対話が得意でないわたしにとって、読み書きは手軽でいいインプットでありアウトプットである。

誰が読むわけでもない日記などは、文字に書き起こすだけで気が晴れるものの典型で、書くことはそれだけで立派なアウトプットになりうる。話し相手のない独り言は寂しいが、読み書きはひとりで好きな時にできる。運動したり絵を描くのも同じかもしれない。

とはいえ人はひとりでは生きられない。インプットとアウトプットは人と人をつなぐ大事な営みなんだと思う。どちらか一方では成り立たない。

読み書きもまた、ひとりで完結するだけではもったいない。これからも無理なくできることを続けていこうと思う。

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