わたしは人づきあいが少ない。
でも、こういうことはあからさまに言わないほうがいい。だいたいダメだしされることが多いから。
コミュ能信仰がめんどくさい。
コミュニケーション能力の高さこそ、人として最も大事なこととする傾向をコミュ能信仰というらしい。
よりたくさんの人と友好的に意思疎通して関われる人が優れていると認識されるようです。
確かに、そういう人は素晴らしい。
だけどわたしは、ごく限られた人とでも友好的に関われるなら、じゅうぶんコミュ能アリだと思っている。
だから人づきあいが少ない自分のことも、コミュ能は高くないけれど、とくにダメとは思っていない。
みんながみんな友達100人いなくてもいいでしょ。そんなの気持ち悪い。
コミュ能はそこそこあればいいんです。高くなければ人間失格というコミュ能信仰は、まったくいい迷惑。
人づきあいは量より質
人間関係は、こじれると病気になるほどたいへんなもの。
トラブルを減らすためにも、わたしは無理な人づきあいはしない。うまくもないのに無理をしてもろくなことはない。
そのせいか、ほとんどの場合、プライバシーに関わるほどのつきあいに発展しない。
水くさいと言われるかもしれないけれど、わたしはこれぐらいのほうが関わる人に誠実に接することができるんです。
個人的に親しくないほうがかえっていい場合も少なくありません。
まずは一人でしっかり暮らすことを大切にしたい。
自分が安定してはじめて人と誠実に向き合えるというもの。
それから、自分にできることがあれば、心がけて行うようにし、自分が困ったときには素直にお願いできる関係を模索するんです。
こんなふうに、自分に都合のいい適度な距離感のある人づきあいだけに限定すると、余計な見栄を張って恰好つける必要がない分お金がかからない。
大切なお金は、自分が気持ちよく過ごせることに無駄なく使いたい。
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