夏休みは、子どもたちが慣れない読書感想文に取り組む。四百字の原稿用紙一枚埋めるのにも苦労している子であっても容赦がない。当然みな同じ課題が出される。
ああこれが作文嫌いの大きな原因になっているに違いない、と毎年思う。
その反面、書き上げた子どもたちのようすを見ていると、どんな作文であろうと、どうにかこうにか字数を埋めて仕上げたという経験は、それはそれで一つの成功体験になるのかもしれないと思ったりもしている。
作文の代筆
作文教室に参加する人は、少なからず作文に苦手意識を持っている。本人ではなく、保護者が子どもに教えられないといって訪ねてくる場合も少なくない。
学校では案外作文の書き方は教えてくれない。だから習いたいという人は意外といるもんだとびっくりしている。
作文支援を始めてもう一つ、いつも考えさせられることがある。
それはわたしが代筆した作文をまねして書いてもらうという練習に戸惑う人が少なからずいることだ。
作文はオリジナルでなければならない。誰かに書いてもらったものを真似して書くなんて、そんなの盗作ではないか……などと思ってしまうようである。第一そんな練習をして、作文が書けるようになるとは考えにくい、といった疑いも透けて見える。
とにかく代筆に対する罪悪感には根深いものがある。
真似をして書くことに抵抗がある人ほど作文に苦労している印象がある。おそらく作文とは、自分で考えて自分のことばで書かねば意味がない、と真面目に考えているのだろう。そう思いつめれば思いつめるほど、手も足も出なくなる。
その点、小さな子どもは「言ったとおりに書いてごらん。」といえば素直に一生懸命書いてくれるから楽だ。それだけでまわりのおとなも喜んでほめる。それなのにいつぐらいからだろう。大きくなるほどそれがいつのまにかタブーになるのだ。
作文は誰でも書けるのが当たり前になっているけれど、ふだん書いていなければ、書けるはずないのである。
わたしは原則細かい誤字脱字などの添削はしないのだが、段落のつなげ方や基本的な構成など、参考になるような作文を代筆することがある。
そうすると、自分が書いた作文を否定されて訂正されたと誤解する人がいる。添削してもらったと喜ばれてしまうのも問題だが、直されたと勘違いして、ひそかに傷つかれるのはなおさら悪い。
作文に正解も間違いもないことを知ってほしい。
このように作文教室では、例として本人のエピソードをもとに代筆することがときどきあるのだけど、その取扱いはなかなか微妙で難しいといつも悩んでいる。
「丸写しはだめだよね。」と言う子どもに、「気に入ったら真似していいよ。」と言うと困ったような顔をするので、「真似っこも作文の練習なんだよ。」と言うと安心するようだ。そもそもネタ元は本人の書いた作文である。何の遠慮がいるだろう。
わたしとしては、お習字と同じつもりなのだ。
真似をして習っているうちに、自分なりの作文が書けるようになる。ことばというのは、真似することから始まる。そのうち代筆の作文では満足できなくなるときが必ず来る。こういうかたちで書けばいいんだなあ、そういう書き方もあるんだ、ぐらいに思ってどんどん真似をすればいいのである。
でも、所詮わたしは愛読者。
楽しく書いてもらうのが何よりである。
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