作文に「思ったこと」を書くのは、作文教室で当然のように教えることだ。中には困惑する生徒がいる。わたしはその生徒の気持ちがよくわかる。
意見のない文章は無責任で書く意味がない、という人もいる。そうか。なるほど。わたしも書くからには意見を持たねば、などと思っていた時期もあった。
そう思って考えれば考えるほど、わたしにはたいした意見がないと気づいた。
あんな意見もあればこんな意見もあるし、どっちがいいんだろ? よくわからないなあ。どうでもいいなあ。というような、まとまらないもあもあした気持ちでいることがほとんどだ。
作文には、意見に沿って根拠をあげながらまとめる方法がある。わかりやすく伝える形式のひとつだ。でも、こんなふうにはっきりすっきり表現できることは、はじめからとくに伝えたいことではない気がしないでもない。
文にすると、考えがまとまってすっきりする気がするのは、おそらく書いた時点で、内容がかなり端折られてしまうからだ。ドロドロした支離滅裂な内心も、書くことで都合よく格好よく整えられる。するとあらふしぎ、わたしったらこんなふうに思っていたっけ? と思いがけない自分に出合い、すっかりその気になるのである。
作文は技術である。要領のいい人は、書きやすい意見を選んでうまくまとめる。
正直で誠実な人ほど、思ったことがうまく書けずに苦労する傾向がある。だから思ったことで困惑する生徒は個人的に嫌いじゃない。
思ったことは途中経過
思考はたえず変化する。ブレているとか、つじつまが合わない、などというけれど、ブレずにつじつまの合ったことを書くには、過去の瞬時の思考の写真を撮るようなもの。書いたことに合わせて、あとからパズルのように理屈を重ねていく不自然な作業と言えなくもない。
中にはそうしたことが自身の内面と食い違い、気持ち悪いと感じる敏感な人もいる。
ああだろうか、こうだろうか、と思索にふける経緯をそのままうまく伝えることができれば大作家である。
この頃は、思ったことを無理に書かなくてもいいのではないかと思うことがある。俳句も思いは想像させるだけで言葉にしないのが粋とされている。内田百閒の名文は、中身のない文でも有名だ。書くからには主張せねば、などというのは、思い込みかもしれない。
ブレてもいい。つじつまが合わないのもまたおかし。作文で暮らしを豊かにしませんか。
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